「日蓮の法門は今日の学問的批判に耐えられない」との見解について

 

今日の学問的な解明・知見により、「日蓮は誤りの上に間違いを重ねて法門を創っており、その教えは無効になるのでは!」との指摘がありますが、それに対して以下、簡潔にまとめました。

 

日蓮は仏(ガウタマ・シッダールタ)滅後2200年以上の時を経た末法の導師である

ガウタマ・シッダールタの生没年には諸説あるが、日蓮が依りどころとした大集経によれば、日蓮は末法ではなく像法時代の導師ではないか。

 

日蓮は文字曼荼羅に「仏滅度後二千二百 二(三)十余年之間一閻浮提之内未曾有大漫荼羅也」と認めた

実際には仏滅度後千六(七)百余年・・・・等となり、讃文を間違えているではないか。

 

日蓮は法華経をガウタマ・シッダールタ=釈迦の直説とした

 

法華経は紀元後〜100200年代にかけて編纂されたことが学問的に解明されており、ガウタマ・シッダールタ=釈迦とは直接の関係はないのであり、法華経釈迦直説を前提として法門を組み立てた日蓮の教えは、土台から揺らいでいるのではないか。

 

 

答え合わせ(もちろん私見です)

 

末法のごとき様相の時代に生まれ合わせた日蓮こそ、末法の闇を照らす導師であると「再定義」すればよいだけです。

 

日蓮は当時の学問的理解によりガウタマ・シッダールタ=釈迦の生没年を記したものであり学習・知見の限界はあったが、その教えの骨格・「唱題成仏」と「万年救護本尊讃文に示されたような文字曼荼羅の意義」等は、いささかも揺らぐものではない。故に、日蓮の手により示された文字曼荼羅讃文の「釈迦入滅年代」が今日の学問的見解と異なることについては、何の問題もない。

 

 

日蓮はガウタマ・シッダールタ=釈迦が法華経を説いたものと理解したが、尊信の対象にして仏宝としたのはガウタマ・シッダールタや釈迦というよりも、法華経如来寿量品第十六の久遠実成の釈尊・久遠の本仏であり、その信仰から法門を組み立てて久遠仏直参信仰を創り上げている故に、法華経が釈迦直説ではないとしても何の問題もない。

 

2024.9.15