日蓮が尊信した仏宝とは?現代の和合僧はなにをもって日蓮を仏宝と尊信するのか?
日蓮 報恩抄
同じき五月の十二日にかまくらをいでてこの山(身延山)に入れり。これはひとえに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国の恩をほうぜんがために身をやぶり命をすつれども、破れざれば、さてこそ候え。また賢人の習い、「三度国をいさむるに、用いずば山林にまじわれ」ということは、定まれるれいなり。
この功徳は、定めて上は三宝より下は梵天・帝釈・日月までもしろしめしぬらん。父母も故道善房の聖霊も扶かり給うらん。
日蓮は「報恩抄」で身延入山の心境を記す過程で、「父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国の恩」を報ずるために不惜身命の妙法弘通に励んだといいます。
ではこの場合、日蓮が意とする三宝とは何でしょうか?
これを思考することが重要だと思うのです。
日蓮の常の教示からすれば、
仏宝=久遠実成の釈尊・久遠の本仏
法宝=法華経にしてその肝心たる南無妙法蓮華経
僧宝=日蓮は特に僧宝云々を強調することはないが、遺文の随所にある日蓮一門、即ち日蓮が慈愛を注いだ門下の人々と理解できるのではないでしょうか。
日蓮が尊信した仏宝、本仏は「妙法蓮華経如来寿量品第十六」に説かれています。
「然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」
「我成仏してより已来、復此に過ぎたること百千万億那由佗阿僧祇劫なり。是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」
「然るに我、実に成仏してより已来、久遠なること斯の若し。」
「是の如く、我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり。寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず。」
では、日蓮入滅の1282年・弘安5年から742年の隔たりがある2024年に生きる私たち和合僧も、日蓮が尊信した三宝を同じように信奉すべきなのでしょうか。
特に仏宝=久遠実成の釈尊・久遠の本仏として・・・
がしかし、現代の私たち・和合僧の祈りと願い、その信仰実践によって培われた機根というものは、信仰観念世界にありながらもその姿が見えない久遠の本仏というものよりも、可視的世界に明らかにして、明確なる妙法弘通の先達・導師である人の姿を求めており、それこそが久遠実成の釈尊・久遠の本仏に連なる上行菩薩として妙法を弘通した日蓮その人ではないでしょうか。
しかも、日蓮は「観心本尊抄」で次のように言われているのです。
私に会通を加へば本文を黷(けが)すが如し、爾(しか)りと雖も文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。四大声聞の領解に云はく『無上宝聚、不求自得』云云。
中略
一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹(つつ)み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ。・・・・と。
日蓮は釈尊=久遠の本仏の因行果徳の二法は、妙法蓮華経の五字に具足されると定義。この五字を受持することにより釈尊=久遠の本仏の因果の功徳が信奉者に譲り与えられる、即ち「受持即観心、自然譲与」を説きます。また末代無智の凡夫には仏=久遠の本仏が大慈悲をおこして、妙法蓮華経の五字を授けるのであるとしているのです。
注目するのが、「末代幼稚の頸に懸け」るという、その久遠の本仏の行いを実践しているのは日蓮なのであり、「教理面の確立」「信仰的振る舞い」という観点からは、日蓮は自らを久遠の本仏と同化させているということではないでしょうか。
即ち日蓮は「久遠の本仏の遣い(如来使)」から、末法に「久遠の本仏の慈悲の振る舞い」を示すという「久遠の本仏の体現者」へと、その内面が昇華されたことを示しているといえるでしょう。
一方で日蓮は最晩年まで「釈尊=久遠の本仏への信仰」を教導していますので、「日蓮は教導面では久遠仏直参信仰の導師であり、その内面世界は久遠仏の体現者、即ち末法の教主としての自覚が横溢していた」といえるのではないかと思います。
ここにおいて、「妙法蓮華経如来寿量品第十六」に説かれる「我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」とされる久遠実成の釈尊・久遠の本仏はもちろん肉身ではなく、法華経信仰世界で常に説法している本仏であり、それは『時代の衆生の祈りと願い、機根と共にある久遠の本仏の体現者のことである』と理解できるのではないでしょうか。
「法華経編纂者が覚知した久遠の本仏とは、その時代の衆生の祈りに応じて顕れる体現者にして救済の法を確立した人のことであり、尊信すべき人のことである」ということであれば、現代の和合僧が日蓮を「我常に此の娑婆世界に在って説法教化」している久遠の本仏の体現者であり、南無妙法蓮華経を唱えることによる唱題成仏の法門を確立した、尊信するに相応しい末法の導師であるとして「末法の本仏」と定義するのも至極妥当であるといえるでしょう。
要は、日蓮が尊信した仏宝=久遠実成の釈尊・久遠の本仏も、その体現者たる日蓮自身も異なることはない、という理解が成り立つのではないかと思うのです。
それは千年後、一万年後、十万年後においてもいえることであり、「その時代の衆生の機根に応じた久遠の本仏の慈悲と智慧を体現した人」が顕れるのではないかと考えるのです。
2024.7.27