御本尊への信が肝要であり、社会的活動・仕事の関係で他の宗教と関わることにはなんの問題もない

 

公明党議員が神社で行われた友党候補の出陣式に参加して、神前で拝礼する。また、神社の集会所で講演を行ったことに関して批判する人がいますが、随分とおかしな話だと思います。そのような批判を一言で言えば、「日蓮系一寺院教学の弊害」「門流教学の弊害」であるといえるでしょう。

 

寺院教学・門流教学の思考によって社会的活動だけでなく、仕事や近隣の付き合い、人間関係までが縛り付けられてしまうのですから、現代にあっては、かかる考えは「百害あって一利なし」の百害そのものであり、広宣流布の前途を阻む寺信心の悪弊といえるのではないでしょうか。

 

何しろ、寺院経営にあっては、他の宗教施設に自宗派の信者が行ってしまい、お賽銭を投げる、供養をするというのは一番困ることであり、即ち寺院経営者としては「機会損失」ともいえるものなのです。他の宗教施設に浮気をさせずに、信者をしっかりと寺院に囲い込むためには、「謗法厳誡、謗法堕地獄」ほど便利で都合のよい話はないわけです。

 

しかしながら、そのような寺院教学の縛りを脱して一閻浮提広宣流布の新たなる地平へと進み行く現代の和合僧の私達は、個人の信仰と、社会での活動及び仕事の一環で他の宗教や信仰に関わることは全くの別な事であると認識すべきだと思います。

 

 「仏法の根本は信をもって源とす」(日女御前御返事・建治3[1277]823日)とあるように、日蓮法華の信仰としては御本尊への信が確立されていることが肝要にして柱であり、社会的活動・仕事の関係で他の宗教と関わることにはなんの問題もありません。謗法というのは仏法僧=三宝を謗ったり、不敬をすることですから、地域のより良き発展を願う思いで地域行事に参加する=社会貢献活動に取り組むことに、なんの問題があるのでしょうか。

 

「随方毘尼の法門」を持ち出すまでもなく、和合僧の人々の地域貢献、奉仕の活動は、至極当然のことであるというべきでしょう。 特に地域で行うイベントのひとつに神社の祭礼・行事などが普遍的に定着しているわけですから、地域貢献、奉仕を活動のひとつの柱とする和合僧の人々が関わり、神輿を担いだり、山車を引いたり、踊りなどの伝統芸能を継承するのは大いに喜ばしいことではないでしょうか。

 

人々の思考と活動を縛り付ける寺院教学・門流教学によって、結局は得をするのは誰なのか? 和合僧の私達は、「批判のための批判」に振り回されることがあってはならないと思います。

 

 

2024.11.2