天照太神と八幡大菩薩から見る妙法曼荼羅
(1) 『日蓮が法門』としての天照太神と八幡大菩薩
日蓮が「聖人御難事」で立教を振り返って記述するのに、
「さる建長五年四月二十八日、安房国長狭郡の内、東条の郷、今は郡です。天照太神の御厨は右大将・源頼朝が建立した日本第二の御厨でありましたが、今では日本第一の御厨です」(意訳)と、『源頼朝が東条の郷を伊勢神宮に寄進した時は日本第二の御厨でしたが、今では日本第一の御厨となっています』とわざわざ記し、
「新尼御前御返事」では、
「安房の国の東条の郷は辺国ではありますが、日本国の中心のようでもあります。その理由は天照太神が東条の郷に跡を垂れたからです。昔は伊勢の国に跡を垂れていたのですが、日本の国王は八幡大菩薩や加茂明神への御帰依が深く、天照太神への御帰依は浅かったので太神が嗔っていた時に、源右将軍頼朝という人が御起請文を以て会加の小大夫に仰せつけていただきささげ、伊勢の外宮にひそかに御納めしたところ、太神の御心に叶ったのでありましょう。頼朝は日本を手に握る将軍となったのです。源頼朝は東条の郷を天照太神の御栖と定められました。故に天照太神は伊勢の国にはおられず、安房の国・東条の郡に住まわれるようになったのでしょう。例えば八幡大菩薩は、昔は西府におられましたが、中頃は山城の国の男山に移られ、今は相州鎌倉の鶴岡八幡宮寺に栖まわれているのと同じことなのです」(意訳)
『天照太神が跡を垂れた東条の郷は日本国の中心の如し』としたことに、どのような意味があったのか?大いに気になるところです。
これらは日蓮の郷土愛の一表現ともいえるでしょうが、ここに天照太神、八幡大菩薩を『日蓮が法門』(兄弟抄他)として摂し入れていた、日蓮の常の思考というものが読み取れるのではないでしょうか。
御書を確認してみましょう。
「平左衛門尉頼綱への御状」 文永5年10月11日
法華を謗ずる者は三世諸仏の大怨敵なり、天照太神・八幡大菩薩等、此の国を放ち給う故大蒙古国より牒状来るか
「法門申さるべき様の事」 文永6年
日本一州上下万人一人もなく謗法なれば、大梵天王・帝桓並びに天照大神等、隣国の聖人に仰せつけられて謗法をためさんとせらるるか
「日眼女造立釈迦仏供養事」 弘安2年2月2日
天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり
「窪尼御前御返事」 (弘安3年か)5月3日
日蓮はいやしけれども、経は梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩のまほらせ給う御経なれば、法華経のかたをあだむ人人は剣をのみ、火を手ににぎるなるべし
「聖人御難事」 弘安2年10月1日
日蓮をば梵釈日月四天等、天照太神・八幡の守護し給うゆへに
国神、日本国を諫める、擁護する神としての天照太神と八幡大菩薩。
正法・法華経の行者守護の善神としての天照太神と八幡大菩薩。
教主釈尊の垂迹としての天照太神と八幡大菩薩等々。
天照太神、八幡大菩薩をはじめ諸々の神々を『日蓮が法門』の一部として摂し入れて展開するところに、日蓮ならではの包摂、摂入の思想というものがうかがえると思います。
(2)妙法曼荼羅本尊における天照太神と八幡大菩薩の配列
曼荼羅本尊における天照太神と八幡大菩薩の配列も興味深いところであり、初期の曼荼羅から順に確認してみましょう。
・()内の数字は立正安国会「御本尊集」でのNoです。
・「御本尊集」以外に「日亨本尊鑑」も参照しました。
「文永十年七月八日」顕示、通称・佐渡始顕本尊 「南無天照八幡等」
「文永十一年太才甲戌六月 日」顕示、身延入山後の本尊(No11) 「南無天照八旛等」
「文永十一年太才甲戌七月廿五日」顕示、本尊(No13) 「大日本国天照太神八旛大菩薩等」
「文永十一年太才甲戌十二月 日」顕示、万年救護本尊(No16) 「南無天照八幡等諸仏」
系年・文永11年と推定され「南無胎蔵大日如来 南無金剛大日如来」が配列された本尊(No18) 「南無天照八旛等」
系年・文永12年と推定される本尊(No19) 「南無天照太神正八旛等」
「建治元年太才乙亥十月 日」顕示、本尊(No26) 「天照大神」と「八幡等」が左右に拝される
「建治元年太才乙亥十一月 日」顕示、本尊(No27) 「天照太神」「正八旛等」が向かって左側に並列
「建治元年太才乙亥十二月 日」顕示、本尊(No30) 再び「天照太神八幡等」と一行に
「建治二年太才丙子二月 日」顕示、本尊(No31) 天照太神と八幡大菩薩の配列がなく「千眼天王」に
⇒「千眼天王」とは富士千眼大菩薩、富士浅間神社の祭神たる富士浅間大菩薩のことか。
参考「上野殿母御前御返事(四十九日菩提の事)」創新=「上野殿母尼御前御返事(中陰書)」昭和定本(弘安3年10月24日)
此の経を持つ人をば、いかでか天照太神・八幡大菩薩・富士千眼大菩薩すてさせ給ふべきとたのもしき事なり。
「建治二年太才丙子二月 日」顕示、本尊(No32-1) (31)と同じく天照太神と八幡大菩薩がなく「千眼天王」の配列
「建治二年太才丙子二月五日」顕示、本尊(No32-2) 首題の左右に天照太神と正八幡宮を配列
「建治二年太才丙子二月 日」顕示、本尊(No33) 首題下、日蓮花押上方に天照太神と正八幡宮を配列
「建治二年太才丙子卯月 日」顕示、本尊(No34) 左右に天照太神と八幡大菩薩を配列 この月に限り「十二神王」を配列する
「建治二年太才丙子卯月 日」顕示、本尊(No35) 左右に天照太神と八幡大菩薩等を配列
「建治二年太才丙子卯月 日」顕示、本尊(No36) 首題の左右に天照太神と八幡大菩薩を配列
「建治二年太才丙子卯月 日」顕示、本尊(No37) 首題の左右に天照太神と八幡大菩薩を配列
「建治二年太才丙子卯月 日」顕示、「奥法寳」3 首題の左右に天照太神と八幡大菩薩を配列
「建治二年太才丙子七月 日」顕示「日亨本尊鑑」第16と「建治二年太才丙子八月十二日」顕示「日亨本尊鑑」第17の二幅はともに、首題の左右に天照太神と八幡大菩薩を配列
「建治二年太才丙子八月十三日」顕示、本尊(No38) 拝して首題左側に天照太神と正八幡宮を並列
「建治二年太才丙子八月十三日」顕示、本尊(No39) 拝して首題左側に天照太神と正八幡宮を並列
「建治二年太才丙子八月十四日」顕示、本尊(No40) 拝して首題左側に天照太神と正八幡宮を並列
「建治二年太才丙子 八月廿五日」顕示、「日亨本尊鑑」第18 天照太神と八幡大菩薩の配列なし
「建治二年太才丙子九月 日」顕示、「日亨本尊鑑」第19 天照太神と正八幡宮を配列
「建治三年太才丁丑二月十五日」顕示、本尊(No42) 首題左右に天照太神と正八幡宮を配列
「建治三年太才丁丑二月 日」顕示、本尊(No41) 首題左右に天照太神と正八幡宮を配列
「建治三年太才丁丑卯月 日」顕示、本尊(No44) 首題左右に天照太神と八幡大菩薩を配列
「建治三年太才丁丑十月 日」顕示、本尊(No45) 首題左右に天照太神と正八幡宮を配列、千眼天王も配列
「[建治]三年太才丁丑十一月 日」顕示、本尊(No46) 首題下に天照太神と正八幡宮を配列
「弘安元年太才戊寅三月十六日」顕示、本尊(No47) 天照太神と八幡大菩薩の配列なし
「弘安元年太才戊寅四月廿一日」顕示、本尊(No48) 首題下左右に天照太神と八幡大菩薩を配列
「弘安元年太才戊寅七月 日」顕示、本尊(No49) 首題下左右に天照太神と八幡大菩薩を配列
⇒(49)以降、天照太神・八幡大菩薩の二神の位置が、首題の「経」字の両側又は下方に配列されて定位置のようになり、以降変動がなくなります。
「弘安元年太才戊寅七月五日」顕示、本尊(No50) 首題下左右に天照太神と八幡大菩薩を配列
「弘安元年太才戊寅七月五日」顕示、本尊(No51) 首題「経」字の両側に天照太神と八幡大菩薩を配列
「文永十年七月八日」の佐渡始顕本尊より縦一行に記されていた天照太神と八幡大菩薩が、「建治元年太才乙亥十月 日」の本尊(No26)より(No30を除いて)分離されるようになります。位置は首題の左右、拝して首題の左側に並列と様々ですが、「弘安元年太才戊寅七月 日」の本尊(No49)に至って天照太神・八幡大菩薩の二神は、首題「経」字の両側又は下方に配列されて定位置のようになっていきます。
(3)曼荼羅本尊を顕し続けたこころ
さて、日蓮が曼荼羅本尊を顕し続けたその心については、「日蓮が魂による衆生教化と救済」「一切衆生皆成仏道」「法華弘通の当体を顕す」「一閻浮提広宣流布・立正安国」「久遠仏の慈悲を流れ通わす」「仏なき時代の仏の再現」「日蓮が慈悲の当体」等々、様々考えられるところですが、蒙古襲来に危機感が高まる一方であった当時の日本国内外の激動と曼荼羅図顕は時期的に重なっており、「観心本尊抄」に「今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支・震旦に末だ此の本尊有(ましま)さず」とあることからも、「他国侵逼難」を意識してのもの、「一閻浮提第一の本尊を此の国に立て世を救わん」という意もあったのではないでしょうか。
「此の悪真言かまくら(鎌倉)に来りて、又日本国をほろぼさんとす」(清澄寺大衆中)と、日蓮が承久の乱での朝廷側敗北の因とした東密などの僧侶の弟子達が以前から鎌倉入りしており、今度は蒙古・異国調伏の為に祈祷を行なっている現状というものがありました。
対して日蓮は佐渡に配流され、社会的には抹殺扱い。このような流れに抗するかのような、佐渡での「開目抄」「観心本尊抄」の執筆。身延入山後の、「立正安国論」への東密批判の書き加え。文永の役、続いての弘安の役。時を同じくして本格化する曼荼羅の作成。
これら日蓮の事跡と社会の動向を勘案すると、東密、台密破折、更に密教僧が調伏の祈祷を捧げる胎蔵・金剛また法華曼荼羅等への破折、真の異国調伏・国土安穏は法華経に依るべきであり妙法曼荼羅への祈りである。滅びに向かうこの国に一閻浮提第一の本尊を立て世を救うという観点からも、妙法曼荼羅を顕し続けたという見方もできるのではないでしょうか。
そこに「天照太神・八幡大菩薩」の二神を拝したということも、個別に立てて祈祷する対象としての神ではなく妙法曼荼羅に摂し入れられることによって初めて、本来の日本国擁護の国神としての力用を発揮する、そこには法華経の行者守護の意も含意されると示したのではないかと思うのです。いわば、『正しい天照太神・八幡大菩薩観はここにあるのだ』との教示の当体でもあるわけです。
(4)鶴岡八幡宮寺と鎌倉幕府
真言密教が鎌倉に流入して幕府要路と通じ盛行したことは、「清澄寺大衆中」以外の他の御書にも記されています。
「祈祷抄」 文永9年
かかる大悪法、年を経て漸漸に関東に落ち下りて、諸堂の別当供僧となり連連と之を行う。本より教法の邪正勝劣をば知食さず。只三宝をばあがむべき事とばかりおぼしめす故に、自然として是れを用いきたれり。
「頼基陳状」 建治3年6月25日
爰に彼の三の悪法関東に落ち下りて存外に御帰依あり。
「下山御消息」 建治3年6月
先に王法を失ひし真言漸く関東に落ち下る。存外に崇重せらるゝ故に、鎌倉又還りて大謗法一闡提の官僧・禅僧・念仏僧の檀那と成りて、新寺を建立して旧寺を捨つる故に、天神は眼を瞋らして此の国を睨め、地神は憤りを含んで身を震ふ。長星は一天に覆ひ、地震は四海を動かす。
御書に記されている「鎌倉に向かった真言師」について、鎌倉幕府の儀式、行事を執り行った鶴岡八幡宮寺(現在の鶴岡八幡宮)と別当職に注目して確認してみましょう。
鶴岡八幡宮寺は康平6年(1063)8月、「前九年の役」で奥州・安倍氏を平定した源頼義が京都・石清水八幡宮護国寺を鎌倉由比郷鶴岡に勧請して社殿を創建したのを始まりとしています。治承4年(1180年)10月、「平家打倒」を目指して挙兵し、鎌倉に入った源頼朝(1147~1199)は社殿を鎌倉小林郷北山に移転。建久2年(1191年)の火災後、頼朝は再度、石清水八幡宮護国寺を勧請して、八幡宮寺を上宮と下宮の体制としています。承元2年(1208年)には神宮寺を創建。武家の崇敬を集めた鶴岡八幡宮寺は隆盛し、一時は25の僧坊を擁するようになりました。
鶴岡八幡宮寺の別当職については、初代から17代までは寺門派=三井寺=園城寺と東寺の高僧が独占しており、密教系宗派と幕府の親密な関係、密教僧の鎌倉への定着のほどがうかがわれます。
初代・円暁(三井寺)
二代・尊暁(三井寺)
三代・定暁(三井寺)
四代・公暁(三井寺)
五代・慶幸(三井寺)
六代・定豪(東寺)
七代・定雅(東寺)
八代・定親(東寺)
九代・隆弁(三井寺)
十代・頼助(東寺)
十一代・政助(東寺)
十二代・道瑜(三井寺)
十三代・道珍(三井寺)
十四代・房海(三井寺)
十五代・信忠(東寺)
十六代・顕弁(三井寺)
十七代・有助(東寺)
これら東密、寺門派の高僧が独占状態だった鶴岡八幡宮寺に対して、鎌倉幕府は様々な祈祷を依頼しています。一例を確認しましょう。
「吾妻鏡」には、日蓮が11歳の時の貞永元年(1232)閏9月4日、彗星が見えたことが記されています。
寅の刻彗星乙方に見ゆ。庚方を指し、長二尺・広八寸・色白赤。この変白気・白虹・彗星未だこれを決せず。本星分明ならざるに依ってなり。和以降本星無き彗星出現の例、度々に及ぶと。
幕府は鶴岡八幡宮寺に祈祷を依頼します。
閏9月26日 癸酉 晴
今日御台所の御祈り等これを行わる。また鶴岡宮寺に於いて、百口の僧を屈し仁王会を行わる。云うにこれ彗星の御祈りなり。
(仁王会=仁王経を読誦し鎮護国家、天下泰平、国土安穏、万民豊楽を願う祈祷法要)
京都で公家社会、朝廷に深く入ってお抱えの僧となり各種の加持祈祷をした如く、鎌倉に教勢を拡大した密教・真言師らは幕府と親密な関係を築いて官僧的存在となり、文永5年(1268)の蒙古牒状到来以降は国家の動向を左右する場面において、その密教の祈祷力を以て幕府の蒙古防衛策の事実上の補完的役割を果たします。密教寺院で行われる異国調伏の祈祷は幕府にとっては心強いものであり、また国家による異国退治の一環、公的なものとして密教の祈祷が位置付けられていたのです。
このような一国を挙げて敵国調伏をしているところに、密教祈祷の亡国論を主張する僧があれば、受け止める側としては教理的解釈に関心を寄せるよりも、幕府に対する批判と同義とすることでしょう。故に密教に対する批判開始はそのまま体制批判とも捉えられ、身命に係わる事態となることを日蓮は予期していたのではないでしょうか。
(5)曼荼羅本尊に関する教示から読み取れること
「日女御前御返事」 建治3年8月23日
意訳
首題の妙法蓮華経の五字は中央にかかり、四大天王は宝塔の四方に座を占めています。釈迦仏・多宝仏、本化の四菩薩は肩を並べ、普賢・文殊等・舎利弗・目連等が座を屈して、日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅が並び、その外、不動明王・愛染明王が南北の二方に陣を取り、悪逆の提婆達多や愚癡の竜女も一座をはり、三千世界の人の寿命を奪う悪鬼たる鬼子母神、十羅刹女等、しかのみならず日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神々、すべての大小の神祇等、本体の神が連なり御本尊の中に列座しているのです。そのほかの用の神がどうして漏れるでしょうか。宝塔品には「諸の大衆を接して皆虚空に在り」とあります。これらの仏・菩薩・大聖等、更に法華経序品に連なった二界八番の雑衆等も一人も漏れずに、この御本尊の中に住され、妙法蓮華経の五字の光明に照らされて、本来のありのままの尊形となっています。これを本尊というのです。
曼荼羅本尊に関する日蓮の教示からは、それ以前の教えたる旧仏教・顕密仏教に蔵されるものからまずは「法華経」を摂り入れ自己のものとして「法華経最第一」を鮮明化して再生、教理面の核としながら、以降も同様の作業、インド・中国伝来の思想・教理、更には日本の神々をも「摂入・包摂」して教理面の完成をみて独自の法華経信仰世界を作り出していったように見えますが、その集大成ともいえるのがやはり妙法曼荼羅本尊ではないかと思います。
もちろん、信仰的には「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(報恩抄 建治2年7月21日)の当体としての曼荼羅本尊です。今後も様々な視点から考究を重ねていきたいと思います。