天台沙門、根本大師門人・日蓮
1.日蓮の修学環境
【 清澄寺の納経札 】
「阿闍梨寂澄自筆納経札(あじゃりじゃくちょう・じひつ・のうきょうふだ)」
(早稲田大学所蔵文書)
房州 清澄山
奉納
六十六部如法経内一部
右、当山者、慈覚開山之勝地
聞持感応之霊場也、仍任
上人素意六十六部内一部
奉納如件、
弘安三年五月晦日 院主阿闍梨寂澄
1280年・弘安3年当時、清澄寺は慈覚大師円仁の開山と伝わり、六十六部如法経納入の寺院であり、「聞持感応之霊場也」即ち虚空蔵菩薩求聞持法を修する霊場であった。
【 虚空蔵菩薩 】
梵名はアーカーシャガルバで、虚空蔵はアーカーシャガルバ(虚空の母胎)の漢訳であり、虚空蔵菩薩とは、無限なる宇宙空間の尽きることのない知恵、溢れる慈悲を内蔵した菩薩であり、知恵、知識、記憶力増進の利益をもたらす菩薩とされる。
密教の胎蔵界曼荼羅の中の虚空蔵院での主尊であり、釈迦院での右脇士である。
金剛界曼荼羅の賢劫十六尊の中におり、外院方壇南方四尊の第三位である。
【 虚空蔵菩薩求聞持法 】
虚空蔵菩薩を念じて記憶力増進を成就する修行法であり、中国の善無畏訳の「虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法(こくうぞうぼさつのうまんしょがんさいしょうしんだらにぐもんじほう)」には、
「一経耳目文義倶解。記之於心永無遺忘」
とあり、経典を一度見聞きする事有れば、経典の意味を理解する事ができ、永く忘れる事が無いとしている。
(善無畏=善無畏三蔵・637年~735年、インド摩伽陀国の国王・僧。716年、唐の長安に行き、虚空蔵求聞持法、大毘遮那経[大日経]を漢訳する。真言伝持の八祖の第五祖)
【 三教指帰と聾瞽指帰 】
記録に残る修行としては空海が入唐する前に行ったものが有名で、その著「三教指帰(さんごうしいき)・序」(797年・延暦16年12月1日成立)には以下のように記されている。
時に一沙門有り。虚空蔵求聞持法を呈示す。其の経に説く。若し人、法に依って此の真言一百万遍を誦せば、即ち一切経法の文義暗記を得ん。是に於て大聖の誠言を信じ、飛焔を鑽燧に望み、阿波国大瀧之獄に躋り攀ち、土佐国室戸之崎に勤念す。幽谷は聲に応じ、明星は影を来す。
とある。
文意
ある時、空海は一沙門から「虚空蔵求聞持法」を示された。その経によると、「山中に篭もり、虚空像菩薩の真言(ノウボウアキャシャキャラバヤ・オンアリキャマリボリソワカ=華鬘蓮華冠をかぶれる虚空蔵に帰命す)を百万遍誦すれば、一切経の深義、文の意味するところが心中に入るであろう。記憶力が増進し、一切経の智恵を得ることができるのである」ということであり、沙門の教えを聞いた空海は、木鑽により炎を発するような不眠不休の修行を成し、四国阿波の国の深山、太龍の岳や土佐の国室戸岬に篭もったのです。深山幽谷は大師の音声に応じて響き、ついには明星(虚空蔵菩薩の応化)が来影しました。
※ある時=791年・延暦10年頃とされる。
「一沙門・空海の師僧」は、通説では勤操(ごんそう 754~827・三論宗の学僧)とされていた。(「遍照発揮性霊集」巻八「先師の為に梵網経を講釈する表白」の記述、及び造東寺別当に勤操の後に空海が就いたことによるものか)
近代では、空海が重要視した「釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)」を請来した大安寺・戒明(他に唐より「首楞厳経(しゅりょうごんきょう)」なども請来する)が、「三教指帰・序」の一沙門・空海の師僧ではないかと推測されている。
※高野山御影堂に空海真蹟として伝来してきた「聾瞽指帰(ろうこしいき)」(高野山霊宝館収蔵・国宝)は「三教指帰」と同じ797年・延暦16年12月の作となっており、両書の比較では序文と巻末の十韻の詩の異なり、若干の字句の変更のみの相違であり、現在では「聾瞽指帰」が原作、「三教指帰」はそれを修正したものとされている。
【 三教指帰と立正安国論 】
「立正安国論」四六駢儷体(しろくべんれいたい)文章の典拠の一つとして、空海の「三教指帰」を踏まえていることが北川前肇氏(大崎学報157号「日蓮聖人の立正安国論と三教指帰」P53)、山中講一郎氏(法華仏教研究3号「立正安国論はいかに読まれるべきか」P56)によって指摘されている。そして中山法華経寺には平安後期・院政期のものとされる「三教指帰注」が伝来している。若き空海の虚空蔵菩薩求聞持法と明星来影の体験が著された「三教指帰」を、日蓮は「立正安国論」を提出した正元2年・文応元年(1260)以前に読み込んでいたことは確実で、その時期はやはり、集中的に学習を行った建長5年(1253)の「法門申しはじめ」以前ということになるだろう。
日蓮は17歳(嘉禎4年・1238)の時には天台座主・円珍の「授決集」を補った「授決円多羅義集唐決」を写し、30歳(建長3年・1251)には東密と浄土教の融合を説いた覚鑁の「五輪九字明秘密義釈」を写しており、台密・東密の学習に励んだこの頃の日蓮の手元には「三教指帰」が置かれていたようだ。
今、山中氏が論考中で指摘された「立正安国論」と「三教指帰」の対象箇所を見ると、空海と密教が日蓮に与えた影響は実に大なるものがあったように思う。それは「立正安国論」の文体のみならず、建長6年(1254)に「不動明王」「愛染明王」が感得されていることや、後年、図顕される妙法曼荼羅の形相的起源という角度からもいえることだろう。
また、日蓮は少年時に虚空蔵菩薩高僧示現の不可思議なる体験をしており、それを解明するということも、修学期の密教探求活動の一端にあったのではないだろうか。このような日蓮の修学過程は、空海が高僧より虚空蔵菩薩求聞持法を教えられ、教理研鑽よりもその実践修行を行い、結果、明星来影の不思議体験をして、その理論的根拠を知るべく経典探索を続けた姿と重なるものがあるように思う。
【 自然智宗 】
「求聞持法」は空海に始まるものではなく、奈良時代の山林修行の僧団「自然智宗(じねんちしゅう)」が始まりとされている。
宮家準氏の著「修験道と日本宗教」P44(1996年 春秋社)によれば、奈良時代初期に元興寺(がんごうじ・創建593年、開基・蘇我馬子)に来た唐僧の神叡(しんえい・法相宗)は、吉野川北側の比蘇寺(現在の曹洞宗世尊寺・奈良県吉野郡大淀町上比曾)にて二十年間に亘り籠る。その間、神叡は虚空蔵菩薩を本尊とする修行を行い結果、自然智を得る。この自然智とはヨーガの観法によって得られる仏梵一如の境地を意味し、その実践は自然智宗と呼ばれている。その後、大和大安寺で華厳・戒律・禅を説法した唐僧の道璿(どうせん・702~760)も自然智を求めて比蘇寺で修行している。
最澄は12歳の時、比叡山の南の神宮禅院で、如来禅や天台を説いた行表の下で出家して弟子となっている。最澄は自然智宗にも触れている。一方、興福寺の賢璟(けんけい)とその弟子修円は天応元年(781)頃、室生寺を開き、ここを興福寺僧の修行道場とする。そこに初代比叡山座主・義真の弟子円修が入山している。
他に、大安寺の道慈は竹渓山寺を開いたが、その孫弟子の勤操は空海の師である。また、金峰山で修行して醍醐寺を開き、のちに当山派修験の祖とされた聖宝は,勤操の孫弟子に当たる。
自然智宗の淵源は中国の揚子江下流域で実践された山林修行であり、飛鳥地方南部に移住した帰化人檜前氏により伝来され、同氏創建の比蘇寺で行われた。(以上、引用趣意)
宮家準氏の解説に基づいて清澄寺に至る伝来の過程を大まかにたどれば、「中国・揚子江下流域の山林修行・自然智宗→檜前氏の帰化→山林修行・自然智宗とその修行法・虚空蔵菩薩求聞持法の伝来→比蘇寺の創建→時を経て空海による虚空蔵菩薩求聞持法→東密より台密へ取り入れられる→慈覚大師・円仁の流れを汲む『聖』による全国各地、安房の国への伝来→虚空蔵菩薩求聞持法を修する道場として清澄寺は再興され、喧伝されるようになる」というところだろうか。
2.天台沙門、根本大師門人としての日蓮
(1) 日蓮が天台系の僧であったことを示すもの
日蓮は建長5年の「法門申しはじめ」以降も、天台沙門、根本大師門人を名乗っている。これは天台の僧として自己規定し、仏教上の立場を明確にしたものである。それは同時に、出家得度した清澄寺での、日蓮の法脈の理解につながるものといえるだろう。
【 三部経肝心要文 】
「三部経肝心要文」
文応年間(1260年~1261年)
真蹟1巻6紙 池上本門寺蔵
(日蓮聖人真蹟集成 第6巻 1976年 法蔵館)
題名の下に「天台沙門日蓮」と記す、紙は所々損じている。真蹟では唯一か。
*山中喜八氏は、「建長の末(1255年~1256年)に書かれたもの」と推定。
(「日蓮聖人真蹟の世界・下」P225)
【 日興書写「立正安国論」 】
玉沢妙法華寺に伝来する「立正安国論」写本には、題号の次下に「天台沙門日蓮勘之」の署名がある。日興の署名・花押はないものの、筆跡より日興写本とされる。
「日蓮聖人遺文の文献学的研究」(鈴木一成 山喜房仏書林 P274)には、「日興筆の『安国論』については日親の『伝燈抄』に、彼が鎌倉浜戸の法華寺往訪の際の同寺の重宝拝見の事を記した中に『日興ニ書セラレタル安国論裏ニ御自筆ニテ註ヲ付サセ給タル御本』とある(筆者注・夢想御書のこと)。」とし、写本が日興筆であること、既に日親(1407年・応永14年~1488年・長享2年、「伝燈抄」述作は1470年・文明2年)の代に玉沢本が日興筆とされていたことがうかがわれる。
日興以外の門下による「立正安国論」写本にも「天台沙門日蓮勘之」とあり、千葉県市川市中山・法華経寺蔵の日高写本、千葉県香取郡多古町島・正覚寺蔵の日祐写本、千葉県香取郡多古町南中・(峯)妙興寺蔵の日弁写本の計三本が確認されている。
【 法華題目抄 】
「法華題目抄(法華経題目抄)」 文永3年 真蹟(定P391)
本文冒頭に「根本大師門人 日蓮 撰」と記している。
根本大師=最澄
尚、「智顗(天台大師)の後身が最澄(伝教大師)となり法門を広める」との思想が当時の延暦寺・円仁門流にあり、日蓮はその説を「法華題目抄」の文中で引用しているところから、思想的にはそれを継承していた立場・天台沙門であり、「根本大師門人」と記した冒頭の記述と併せて、天台僧としての意識を強く持っていたことがうかがわれる。
漢土の天台大師御入滅二百余年と申せしに、此の国に生まれて伝教大師となのらせ給ひて、秀句と申す書を造り給ひしに「能化所化倶に歴劫無し妙法の経力にて即身成仏す」と竜女が成仏を定め置き給へり。而るに当世の女人は即身成仏こそかたからめ、往生極楽は法華を憑まば疑ひなし。譬へば江河の大海に入るよりもたやすく、雨の空より落つるよりもはやくあるべき事なり。
(定P404)
付言すれば、建治2年(1276)3月5日に妙密上人に報じたとされる「妙密上人御消息」では、「然るに日蓮は何れの宗の元祖にもあらず、又末葉にもあらず」(定P1165)としているが、同書の真蹟はなく、本満寺本、三宝寺本による写本である。これが真蹟だとしても、建治2年の段階ではそれまでの「台密」への一定の期待・配慮というものから脱却し、「台密批判」を行っている時期であり、この頃には「日蓮と同時代の比叡山の一天台僧」としての意識は薄くなっていたであろうから、然るべき表現になったものと考えられる。
【 日蓮阿闍梨 】
文永8年(1271)6月、極楽寺良観と日蓮との「祈雨の勝負」があり、事の成り行きに仏教諸宗派の高僧らは危機感を抱いて結束、日蓮に対する行動に出た。
光明寺の開山と伝えられる「法然上人の孫弟子・念阿弥陀仏」(行敏訴状御会通)の弟子・行敏が日蓮に対して「難状」を送り法論を求めてくるのだが、文末に「日蓮阿闍梨御房」とある。これは、日蓮とは阿闍梨号であること、それを他宗の者も認識していたということを意味している。では、日蓮はこの阿闍梨号をどこで付したのかとすれば、まずは自称の阿闍梨号とは考えられない。これまでの日蓮の仏教界との関わりからして、比叡山で付与されたものと思われる。そして日蓮は天台僧であること、日蓮は天台系の僧としての阿闍梨号を終世使用した、ということを示しているのである。
文永8年7月13日「行敏御返事」(定P496 真蹟断簡)
*「行敏御返事」中の「行敏初度の難状」
未だ見参に入らずと雖も、事の次(ついで)を以て申し承るは常の習ひに候か。
抑(そもそも)風聞の如くんば所立の義尤(もっと)も以て不審なり。
法華の前に説ける一切の諸経は、皆是妄語にして出離の法に非ずと是一。
大小の戒律は世間を誑惑して悪道に堕せしむるの法と是二。
念仏は無間地獄の業たりと是三。
禅宗は天魔の説、若し依って行ずる者は悪見を増長すと是四。
事若し実(まこと)ならば仏法の怨敵なり。仍って対面を遂げて悪見を破らんと欲す。将又(はたまた)其の義無くんば争(いか)でか悪名を被(こうむ)らざらん、痛ましきかな。是非に付き委しく示し給はるべきなり。恐々謹言。
七月八日 僧行敏在判
日蓮阿闍梨御房
【 水鏡の御影 】
中山法華経寺塔頭・浄光院所蔵「水鏡の御影」(国・重要文化財)の日蓮の法衣は七条、法服で僧綱襟であり天台宗の僧衣とされる。画像右上には文永12年3月10日に曾谷入道・大田金吾に報じた「曾谷入道殿許御書」(真蹟)の「正像二千年には西より東に流る、暮月の西空より始むるが如し。末法五百年には東より西に入る、朝日の東天に出づるに似たり。」(定P909)が書かれており、山中喜八氏によると「筆跡から推測して中山の二代目の日高聖人だと考え」(「日蓮聖人真蹟の世界・下」P225)られる、とのことである。
日高は下総の国千葉氏の家臣・太田乗明の子であり、正嘉元年(1257年)の生まれ。身延山の日蓮に仕え教説を学ぶ、と伝えられている。
※参考「日蓮聖人遺文辞典」P858
1276年・建治2年7月21日に日昭に報じた「弁殿御消息」(真蹟 定P1191)には「ちくご(筑後)房、三位、そつ(帥)等をばいとま(暇)あらばいそぎ来たるべし」とあり、この「そつ(帥)公」とは即ち日高のことを指しているのは、富木日常による「日常置文」に見られるところである。
上記遺文は「ちくご(筑後)房、三位、そつ(帥)等をばいとま(暇)あらばいそぎ来たるべし。大事の法門申すべしとかたらせ給へ。」というもので、日蓮は「ちくご(筑後)房=日朗、三位=三位房、そつ(帥)=帥公=日高の三名に『大事の法門』を教示したいので身延山に来なさい」と伝えるよう日昭に依頼している。これは日蓮身延在山時の門弟内における日高の位置を語るもの、即ち日蓮より直接教導を受ける法器であったことを示すものだろう。また、帥公(日高)は弘安5年10月14日の日蓮葬送の列に、後陣として随っている。
日高は日蓮滅後に八幡庄谷中郷中山・太田乗明の館内持仏堂に居住し、本妙寺として開創する。富木日常(常忍)とは師弟関係を結び、日常亡き後に法華寺の貫主を兼務して中山門流発展の礎を築くことになる。三代目となる日祐に後事を託して、正和3年(1314年)に逝去している。
八幡庄にいた少年日高は、建長5年の「法門申しはじめ」以来、何度も富木氏等のもとを訪れた日蓮と、直に接する機会が多かったのではないだろうか。そして青年日高は身延山で日蓮に給仕をしてからは、生の日蓮に接して眼前の師匠を眼に刻んだことであろう。
ただし、水鏡の御影は鎌倉時代の作と伝えるが、この画像の制作に日高が直接関わったとの確証はないようだ。日高の存命中かまたは亡き後に書かれたものかどちらにしても、日高が口述したであろう日蓮の天台僧姿を絵師が受け止めて書いたものではないだろうか。
上代において作成された「水鏡の御影」についても、天台僧としての日蓮の姿を今日に伝えるものと考えるのである。
(2)天台系の僧・日蓮
【 自立した天台僧としての法華経の弘経者、題目の弘法者 】
日蓮が生きた鎌倉時代。
気になるのが、日蓮に対する側、日蓮を見る側の認識、日蓮観というべきものはどのようなものだったのか、ということだ。不思議と言えるかもしれないが、文永8年に、法然の孫弟子・念阿弥陀仏の弟子・行敏が日蓮に対して送りつけた「難状」を日蓮自身が引用した書、「行敏御返事」(真蹟 定P496)等を除き、日蓮に対する側、他宗や幕府等、外側からの日蓮観、認識をうかがわせるような文献は管見の限り見受けられない。
今日では「宗祖、蓮祖、高祖、大菩薩、聖人、お祖師様、大聖人」などと門下各宗各派、尊称を使い敬っているが、当時の他宗の僧、在家の人々は日蓮をどのように、また何宗の僧と見ていたのであろうか。
清澄寺には真言・東密の法脈があったので、少年日蓮は彼ら東密の諸師から教示を受けたこともあったろうが、師僧と法兄の法脈(台密)、更に「法門申しはじめ」以降の日蓮の言動からして、修学期の大半は天台・台密の環境の中で学習、修行を重ねたのではないかと思う。修学が成されると天台宗の依経である法華経について特に強調し、その他経に勝れる所以、「諸経滅尽の後特(ひと)り法華経留まるべき」「一代五十年の已今当の三説に於て最第一の経なり」(1259年・正嘉3年・正元元年「守護国家論」真蹟曽存 定P102)と法華経最第一を説いたところからして、天台宗の中でも法華経至上主義を掲げる個性的な僧と見られたことだろう。
また、専修念仏の法然浄土教を「国を喪(ほろぼ)すの悪法」(守護国家論)として激しく批判、その排斥を主張しているところから、「諸教融和」「諸宗兼学」が一般化していた当時の天台宗の中でも、特に法華経を崇敬する、随分とこだわりの多い僧、事を荒立てる僧というのが大方の認識でもあったことだろうか。
尚、少し時代が下った遺文となるが、当時の天台宗の一般的な考え方である「釈尊の教えは皆正法であり、有縁の法により成仏できる」という「釈尊一代教説正法論」「有縁教法得道論」ともいうべきもの、諸宗共存共生の思想を「如説修行抄」(1273年・文永10年5月 日尊本 日朝本)で「当世日本国中の諸人一同に如説修行の人と申し候は、諸乗一仏乗と開会しぬれば、何れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし。念仏を申すも、真言を持つも、禅を修行するも、総じて一切の諸経並びに仏菩薩の御名を持ちて唱ふるも、皆法華経なりと信ずるが如説修行の人とは云はれ候なり」(定P733)と紹介している。
「法門申しはじめ」(P1672 聖人御難事 真蹟)から竜口までの日蓮の教説とその行動を見ると「天台僧」であり、専修念仏禁断、法然浄土経排斥の主張とセットで「日本国の仏教の盟主たる天台宗・比叡山再興」への願望を持っていたが、その意識の根底には「依法不依人」に基づく「法華経・涅槃経の僧」というものが脈打っていたように思う。当時の僧侶一般が抱いていた「宗派への帰属意識」よりも、「経典への信仰」の方が優先していたのではないだろうか。日蓮は「天台沙門」と名乗りながらも、「法華折伏」の行動に当たっては何憚るところもなく、宗派に遠慮したり、縛られるものもなかったであろう。
日蓮は強烈なる「経典信仰」「経典中心」の人だったと思う。
一方では、少年時代から青年期に仏教の基礎を学んだ清澄寺を終世大切にし、遺文には師匠・道善房を始め登場人物が多い。そして、台密から脱却するまでは、比叡山に対しても配慮して思いを寄せている。
しかしながら清澄寺と違い、遺文に登場する比叡山等での修学時代のことは少なく、人物についてはほとんど見受けられない。
立教後の日蓮の著作、書状、図録、要文などは膨大なもので、これらに使用された「経論釈」の大半以上は比叡山で学習、書写しているであろうことと併せ考えれば、比叡山、京畿時代は人と向かい合うよりも、「経典、論、釈」と向かい合っていたように思える。即ち日蓮は各宗各派の教えを認識、分析、摂取することに没頭していたのではないだろうか。この時期=修学期に、思想的には「自立した天台僧」になったのだと思う。
【 日蓮以前の祖師達 】
日蓮に先立つ、鎌倉仏教の他の祖師達を見てみよう。
彼らは比叡山で学びながらも、法華経に依って立つことなく他の経典によって一宗を立てている。天台宗の開祖たる智顗(天台大師)が講義して弟子の灌頂(章安大師)が筆録した「妙法蓮華経玄義(法華玄義)」「妙法蓮華経文句(法華文句)」「摩訶止観」の法華三大部が天台宗の根本典籍だが、後に日蓮が激しく批判するように、当時の天台宗は東密の「理同事勝」の義、密教を取り入れた天台密教・台密であり、更には禅、戒、念仏も摂した四宗兼学の道場でもあった。一方では、山法師=僧兵は山を下りては近隣の寺社と武力衝突し、朝廷には強訴を繰り返してもいた。
そのような時代の(日蓮の先輩ともいえるであろう)叡山の学僧が法然、弟子である親鸞。そして栄西、道元らである。
法然は比叡山黒谷の叡空に師事して法然房源空と名乗り、中国浄土教・善導の「観無量寿経疏」によって称名念仏による専修念仏を説く。弟子の親鸞は比叡山を出でて各地に布教、その信奉者の集団は隆盛し後の浄土真宗となる。栄西は14歳で比叡山にて出家得度。南宋への留学時に興隆する禅宗に触発され、天台山万年寺の虚庵懐敞(こあん えしょう)に師事し、臨済宗の嗣法(しほう・法統を受け継ぐ)の印可(いんか・師僧が弟子に法を授けて悟りを得たことを証明認可)を受け帰国。真言宗などの既成仏教との調和を計りながら布教を進めていく。
道元は第70世天台座主・公円により出家得度し、三井寺などで天台教学の修学を重ねた後、宋に渡り曹洞宗の天童如浄(てんどう にょじょう)より印可を受け帰国。各地に布教して一時は比叡山より圧迫されるも永平寺を開創し、北条時頼らの招きにより半年間、鎌倉で教化。
日蓮が法華経最第一を唱え、法華経の弘経、題目の弘法を始めた頃、これら先達の教えは民衆、武士社会に深く根を下ろし、多くの信者を擁していたのである。当然、既存のものに対する批判は避けて通れず、それは同時に圧迫を受ける側となることを意味した。また、「釈尊=久遠仏の教説・法華経への信仰」という仏教正統の原点回帰への日蓮の教説であったものの、容易には理解されなかっただろうし、日蓮の意とするところとは違った捉え方もされたであろう。
いつの時代でも繰り返される、開道者の労苦である。
【 久遠仏回帰論者・原点回帰論者、日蓮 】
日蓮の経歴、説くところ、主張からすれば、間違っても「比叡山出身の禅宗、浄土宗、真言宗、律宗のいずれかの僧で法華経第一を説く人物」などとは見られなかったであろうし、そのことは誰よりも日蓮自身が、世間が自己をどのように見ていたか、認識、痛感もしていたことであろう。
人は人を見るとき、まずは既成の概念で他者を認識するものだし、それは即ち、大衆は日蓮を「天台僧」と認識していたことを意味するだろう。また、法を説く日蓮も、大衆の機根、化導の次第・順序というものを認識していたであろうから、建長5年(1253)4月末のその瞬間より全くの新しい宗派、今までとは以て非なる新しい教えの僧として法を説いたというよりも、やはり、僧としての自己の成り立ち、経緯を踏まえて天台の僧として出発し、法の流布を期したことであろう。
そのことを示すのが、立教より13年後の「根本大師門人」との名乗りであり、「天台沙門」との名乗りであったと推するのである。
前の記述と重なるが、日蓮の主張も専修念仏を掲げる法然浄土教の批判、排斥を訴え、対するように「法華経の題目は八万聖教の肝心、一切諸仏の眼目なり」(定P392法華題目抄 真蹟)として専修唱題ともいえる教説を前面に掲げ、釈尊の教えの真髄に還る、即ち釈尊の出世の本懐と位置付ける法華経を受持すべきことを繰り返し説示しているのであり、多くの人を阿弥陀仏から南無妙法蓮華経という法信仰へ、釈尊即ち久遠の仏へ帰命させようとした「久遠仏回帰論者」「原点回帰論者」でもあった。
いずれにしても、日蓮は天台・台密に学び、自立した一天台沙門として出発したのである。故に立教より7年後、「立正安国論」を北条時頼に提出した際にも「天台沙門」と記し、その論の展開もまた、ただ法華経を勧奨するのみならず、天台・比叡山の代弁者ともいえる記述がうかがえるものとなっているのである。
尚、文永3年の「法華題目抄」(定P394)よりうかがえる専修唱題の理論は至極単純なものである。であればこそ、教説を耳にする各人の持つそれまでの宗教体験による反発、逆縁という試練を経ながらも、多くの人に受け入れられ、広まりゆくこととなったのであろう。
問うて云はく、題目計りを唱ふる証文これありや。
答へて云はく、妙法華経の第八に云はく「法華の名を受持せん者、福量るべからず」と。正法華経に云はく「若し此の経を聞きて名号を宣持せば、徳量るべからず」と。添品法華経に云はく「法華の名を受持せん者、福量るべからず」等。此等云云の文は題目計りを唱ふる福計るべからずとみへぬ。一部八巻二十八品を受持読誦し、随喜護持等するは広なり。方便品寿量品等を受持し乃至護持するは略なり。但一四句偈乃至題目計りを唱へとなうる者を護持するは要なり。広略要の中には題目は要の内なり。
2023.10.15