国際情勢、自然界の働き、法の邪正
日蓮の書簡「大学殿の事」の執筆年は弘安元年と推測されていますが、身延に入山してから暫くしたこの時でも、幕府高官である安達泰盛から「祈り」を依頼されていたということは、日蓮と幕府要路とのパイプが継続されていたことを意味するのではないかと思います。
文永11年10月の文永の役の後、日蓮の対蒙古危機意識は高まっており、「清澄寺大衆中」(建治2年正月か)では、「安房の国にむこ(蒙古)が寄せて責め候はん時」と、故郷の安房国にまで蒙古が攻め寄せるであろうと記述します。
「撰時抄」(建治元年6月)では、「いまにしもみよ大蒙古国・数万艘の兵船をうかべて日本をせ(責)めば上一人より下万民にいたるまで一切の仏寺・一切の神寺をばなげすてて各各声をつるべて南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え掌を合せてたすけ給え、日蓮の御房・日蓮の御房とさけび候はんずるにや」と、次なる蒙古の攻めは大軍団であり、日本国の人々がそれまでの諸宗を投げ打って題目を唱えて叫びながら日蓮に救いを求めるであろうと、その光景が眼前に浮かぶような記述をされています。
ほかにも、建治年間から弘安にかけての書簡では、「蒙古によって謗法国日本が治罰される、亡国となることが必定である」旨の記述が見受けられます。
一見、「想像が過ぎるのではないか」と思う人が多い書き方かもしれませんが、「大学殿の事」に見られるように幕府とのパイプがあり、しかも「祈り」を依頼されるほどの信用ですから、日蓮の危機感たっぷりの記述には、『幕府内での認識』というものが背景にあったのではないかと思うのです。
その後、実際に弘安4年5月には、第二次蒙古襲来・弘安の役が勃発するわけですが、同年4月28日、鎌倉に大風が吹き荒れます。この「風の働き」に日蓮は大いに感じ取るものがあり「風は是れ天地の使なり・まつり(政)事あ(荒)らければ風あ(荒)らし」(八幡宮造営事)と、「風は天地の使いであって悪政では風も荒くなる=大風が吹き荒れる」と記述しています。
「文永十一年四月十二日に大風ふきて其の年の他国よりおそひ来るべき前相なり」(同)と、文永11年4月12日に鎌倉に吹いた大風についても、文永の役の前相であったと説示するのです。
国際情勢、自然界の働き、法の邪正と関連してくるわけですが、これを以て『日蓮の仏法はただ拝むだけのものではなく、その時代の社会の動向、自然事象そして人心と共にある』ということを学ぶのです。
以上、あれこれと考えましたが、ただ御書を棒読みするのではなく、時代背景、社会の動きと重ねながら読んでいくと、思わぬ発見があったりします。
「そうだったのか」という何かしら、手につかみ取るような実感もあったりで、それが我が信仰の深みを増していくことにつながっていくのではないでしょうか。
(2023.1.10⇒2023.4.10修正)