「内記左近入道殿御返事」~三人の登場人物
「内記左近入道殿御返事(ないきのさこんにゅうどうどのごへんじ)」
弘安5年(1282)1月14日
*本文
追伸。御器(ごき)の事は越後公御房(えちごこうごぼう)申し候べし。御心ざしのふかき由、内房(うつぶさ)へ申させ給ひ候へ。
春の始めの御悦(おんよろこ)び、自他申し籠(こ)め候ひ了んぬ。抑(そもそも)去年の来臨(らいりん)は曇華(どんげ)の如し。将又(はたまた)夢か幻か、疑ひいまだ晴れず候処に、今年の始め深山(みやま)の栖(すみか)、雪中の室(むろ)へ多国を経ての御使ひ、山路(やまじ)をふ(踏)みわ(分)けられて候にこそ、去年の事はまこと(真)なりけるや、まこと(真)なりけるやとおどろ(驚)き覚へ候へ。他行(たぎょう)の子細、越後公御房の御ふみ(文)に申し候か。恐々謹言。
弘安4年(1281)、内記左近入道が身延の日蓮を訪ねたことを、三千年に一度咲く優曇華に例え、夢か幻か本当のことだったのかと振り返っています。それでも、昨年の来臨は本当のことだったのかと疑うほどであったとし、内記左近入道の使いが「多国を経て」新春の祝いを身延の日蓮のもとに届けられたことから本当のことであったと、感動を重ねて記述しています。使いが多国、即ち諸国といいますか多くの国を通り身延に至ったということは、内記左近入道は身延から遥か彼方の地に居住していたと理解できます。
「内記」とは律令制での中務省(なかつかさしょう)での官職ですが、日蓮がこのように表現するほどの人物である内記左近入道とは、いったいどのような人物だったのでしょうか。
追伸に「御器の事」とあるところから、内記左近入道が日蓮に届けた新春の祝いの品は仏事に使う器であったと思われ、その仏教上のいわれに関しては越後公御房=越後房日弁が申し伝えることとし、「御心ざしのふかき由、内房へ申させ給候へ」とあることから、内記左近入道と内房、即ち内房女房との接点が確認できます。
内房女房は由緒ある家系の女性でありました。
弘安3年(1280)8月、内房女房は亡き父親の百箇日忌の追善供養のため、供養の品々に願文を添えて身延の日蓮へ届けています。その返状である「内房女房御返事」(弘安3年8月14日)での記述から、内房女房は古来から忌部(いんべ)氏と共に神事・祭祀を司ってきた中臣(なかとみ)氏という氏姓を持つ家柄であること(藤原氏は中臣氏から派生)、財力、学問と教養があり経典読誦と唱題に多大な時間をかけるだけの余裕があり、かつ強信者であったことがうかがわれます。
内房よりの御消息に云はく、八月九日、父にてさふら(候)ひし人の百箇日に相当たりてさふら(候)ふ。御布施料に十貫まいらせ候、乃至あなかしこ、あなかしこ。御願文の状に云はく「読誦し奉る妙法蓮華経一部、読誦し奉る方便寿量品三十巻、読誦し奉る自我偈三百巻、唱へ奉る妙法蓮華経の題名五万返」云云。同状に云はく「伏して惟(おもんみ)れば先考(せんこう)の幽霊生存の時、弟子遥かに千里の山河を陵(しの)ぎ、親(まのあた)り妙法の題名を受け、然る後三十日を経ずして永く一生の終はりを告ぐ」等云云。又云はく「嗚呼(ああ)閻浮の露庭に白骨仮りに塵土(じんど)と成るとも、霊山の界上に亡魂定んで覚蕊(かくずい)を開かん」と。又云はく「弘安三年女弟子大中臣氏敬白す」等云云。
「内記左近入道殿御返事」の文中では、越後房日弁は「御器の事」を内記左近入道に伝える役割ですが、日弁にも越後房や越後阿闍梨ではなく「越後公御房」、越後『公』『御房』と二つ重ねの敬称で表現していることは要注目でしょう。
以上、「内記左近入道殿御返事」の記述を中心に見てきましたが、中臣氏の家柄である内房女房、日蓮からその来臨を三千年に一度花咲く優曇華に例えられ、身延からは多国を隔てた彼方に居住する内記左近入道、そして二重の敬称で呼ばれた日弁という「登場人物の詳細」は大いに気になるところですし、それら人物と人脈の解明はそのまま「日蓮阿闍梨という人物像」を知ることになるのではと思います。