久遠実成の釈尊(久遠の本仏)が何時の時代でも説法教化しているという「我常在此娑婆世界説法教化」とはどういうことか?
日蓮はガウタマ・シッダールタが法華経を説いたとしながらも、尊信したのは妙法蓮華経如来寿量品第十六の久遠実成の釈尊であり、それは「我常在此娑婆世界説法教化(がじょうざいししゃばせかいせっぽうきょうけ)」と、「仏は常にこの娑婆世界にあって、衆生のために説法教化する」のですから、もはやガウタマさんの域を超え、さらに釈尊というガウタマさんに関連付けられる域をも超えており、その仏はまさに別の表現で呼称するのが相応しく『久遠の本仏(久遠仏)』というべきでしょう。
一方で面白いというべきか、「一念三千を識らざる者には、仏、大慈悲を起こし、五字の内にこの珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けしめたもう」(観心本尊抄)と、日蓮は御本尊授与を仏の振る舞いとしながら自らがその行いを成しているのですから、日蓮は上行菩薩をいわば公式に宣言(万年救護本尊讚文)しながらも、彼の内面には「我常在此娑婆世界説法教化」たる久遠仏の体現者としての自覚が横溢していた、といえるでしょう。
さらに面白いのが、尊信の仏宝といえば、今日的には和合僧の教義として定める事項となりますが、『久遠仏の体現者』という次元でいえば、これは万人が成せるものである、ということかと思います。
『衆生を、万人のいのちを慈しみながら、我を忘れて皆の幸せのために尽くす人こそ、我常在此娑婆世界説法教化の振る舞いを成す久遠仏の体現者である』といえることでしょう。
2024.6.30