久遠仏直参信仰を創りあげた導師・日蓮
1 諌暁八幡抄・日本の仏法
弘安3年12月「諌暁八幡抄」 真蹟
天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名也。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。月は西より東へ向へり。月氏の仏法の東へ流るべき相也。日は東より出づ。日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり。月は光あきらかならず。在世は但八年なり。日は光明月に勝れり。五々百歳の長き闇を照すべき瑞相也。仏は法華経謗法の者を治し給はず、在世には無きゆへに。末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此なり。各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ。(定P1850)
意訳
天竺国を月氏国(※1)という、釈尊(その教理的実体は妙法蓮華経如来寿量品第十六に説示される久遠実成の仏、即ち久遠の仏・久遠仏)が出現した国名である。扶桑国とは日本国という、どうして聖人が出現しないことがあろうか(※2)。月が西から東に向かうのは、月氏国(インド)発祥の仏法が東へと流布する相である。日が東から出るのは、日本の仏法(※3)が月氏国(インド)へ還るという瑞相である。月の光が明らかではないように、釈尊が法華経を説いて衆生を利益したのは8年という短いものであった(※4)。日の光明が月に勝るのは、日本の仏法=日蓮によって日本国に弘められた法門が、今度は8年で終わることなく、第五の五百歳・末法の始めから未来までの長き闇を照らしゆく瑞相なのである。釈尊が法華経誹謗者を治すことがなかったのは、在世には謗る者が存在しなかったからである。しかし末法今の時には、一乗法華経を誹謗する強敵が充満することであろう。このような時代には、不軽菩薩の如く法華経を弘めて衆生を利益するのである。各々我が弟子等、ますます妙法蓮華経の弘法に励まれるべきである。(※5)
※1 月氏国
唐僧の玄奘(げんじょう・三蔵法師、602~664)は求法の旅で110ヶ国を訪ね、28ヶ国を伝聞したが、その見聞録、地誌としてまとめられた「大唐西域記(だいとう さいいきき)」巻二にて、インドの別名を「月氏」としている。そこから中国や日本でも、インドに対する風雅な呼び方・名前=雅称として「月氏国」が定着したようだ。
※2 聖人
聖人とは日蓮であることは、「聖人知三世事」(文永11年・真蹟)に「日蓮は一閻浮提第一の聖人也」と自らが記すところ。
※3 日本の仏法
日本の仏法とは、即ち「日蓮の仏法」ではないでしょうか。日蓮の仏法は、初期には法華経最第一の明示、専修唱題にして、法難を経て日蓮図顕本尊への読経唱題による成仏という「日蓮が法門」として確立されていきます。
※4 月は光あきらかならず。在世は但八年なり
「月の光が薄いように、釈尊が法華経を説いて衆生を利益したのは涅槃までのわずか8年であった」という意味でしょう。
かといって、一部で言われる「過去の仏たる釈尊の法華経と末法の本仏日蓮大聖人の仏法の勝劣を示され、釈尊の法華経は末法に用なしとされた」という極端なものではなく、「釈尊は法華経で衆生を利益したのだが、それは最後のわずか8年だけであった。末法の時代の長さ、救うべき衆生の多さからすると月の光の如きもので、釈尊存命中に教えが届いた時空間はわずかなものであった」と普通に解釈できる表現ではないでしょうか。
※5 各々我が弟子等はげませ給へ
「各々我が弟子等、ますます妙法蓮華経の弘法に励まれるべきである」
もちろん、日蓮が「日本の仏法の月氏へかへる」「日は光明月に勝れり。五々百歳の長き闇を照す」という時、日蓮がその流布に身命を賭した「妙法蓮華経の広宣流布」の意が含まれていることも忘れてはならないでしょう。
2 日蓮が弘めようとしたもの
日蓮はなにを弘めようとしたのか?
日蓮遺文に明瞭といえるでしょう。
文永10年閏5月11日「顕仏未来記」(真蹟曽存)
本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布(定P740)
文永10年7月6日「富木殿御返事」(真蹟)
妙法蓮華経の五字の流布は疑ひ無きものか(定P743)
文永11年5月24日「法華取要抄」(真蹟)
問うて云はく、如来滅後二千余年に竜樹・天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法何物ぞや。答へて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり。
同
是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か。(定P818)
建治元年「種種御振舞御書」(真蹟曽存)
仏滅後二千二百二十余年が間、迦葉・阿難等、馬鳴・龍樹等、南岳・天台等、妙楽・伝教等だにも、いまだひろめ給はぬ法華経の肝心、諸仏の眼目たる妙法華経の五字、末法の始めに一閻浮提にひろませ給ふべき瑞相に日蓮さきがけ(魁)したり。(定P962)
弘安3年12月「諌暁八幡抄」 (真蹟)
今日蓮は去ぬる建長五年葵丑(みずのとうし)四月二十八日より、今弘安三年大歳庚辰(かのえたつ)十二月にいたるまで二十八年が間、又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計り也。此即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲也。(定P1844)
3 久遠仏と法華経、日本国と日蓮の教示
日蓮が創りあげた信仰とはどのようなものか?
「釈尊=久遠仏、法華経、日本国」をキーワードとして、日蓮の思考、教示がうかがえる遺文を確認してみましょう。
◇法華経には、釈尊=久遠仏に「主師親の三徳」がそなわると解釈される文があります。
・譬喩品第三の偈文
「今此の三界は皆是れ我が有なり」との「主の徳」
「其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」との「親の徳」
「而も今此の処は諸の患難多し、唯我一人のみ能く救護を為す」との「師の徳」
・如来寿量品第十六の偈文
「我が此の土は安穏にして天人常に充満せり」との「主の徳」
「常に法を説いて無数億の衆生を教化して」との「師の徳」
「我も亦為れ世の父」との「親の徳」
・久遠仏は常に娑婆世界に存在し、説法教化を重ねています。
如来寿量品第十六「我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」
法華経そのものに、久遠仏に「主師親三徳」の備わることが示され、久遠仏は過去から未来へ娑婆世界に在って絶えることなく説法教化されていることが示されています。
日蓮の立教初期の布教活動は、阿弥陀如来、大日如来、薬師如来、観音菩薩等の仏菩薩像を拝する人々に対しての法華勧奨と専修唱題であり、即ち日蓮は久遠仏の教えを弘めその経典・法華経の最第一であることを強調しました。
この段階では、日蓮は明確に久遠仏の遣いであり、まさに如来使といえるでしょう。譬喩品第三の偈文などは「南条兵衛七郎殿御書」(定P320)、「法門可被申様之事」(定P443)など多くの遺文に引用されるところで、建治3年6月の「下山御消息」(真蹟断片)には以下のようにあります。
法華経の第二の巻に主と師と親との三つの大事を説き給へり。一経の肝心ぞかし。その経文に云く「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す」等云云。又此の経に背く者を文に説いて云く「復教詔すと雖も而も信受せず」乃至「其の人命終して 阿鼻獄に入らん」等云云。(定P1340)
◇日蓮は法華経を通しての生身の釈迦仏=久遠仏への直参を説きます。
文永9年「四條金吾殿御返事(梵音声書)」(日興本・北山本門寺)
釈迦仏と法華経の文字とはかはれども、心は一つなり。然れば法華経の文字を拝見せさせ給ふは、生身の釈迦如来にあ(相)ひまい(進)らせたりとおぼしめすべし。(定P666)
正嘉3年・正元元年「守護国家論」(真蹟曽存)
法華経に云はく「若し法華経を閻浮提に行じ受持すること有らん者は応に此の念を作すべし。皆是普賢威神の力なり」已上。
此の文の意は末代の凡夫法華経を信ずるは普賢の善知識の力なり。
又云はく「若し是の法華経を受持し読誦し正憶念(しょうおくねん)し修習し書写すること有らん者は、当に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼仏を見るなり。仏口より此の経典を聞くが如し。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり」已上。
此の文を見るに法華経は釈迦牟尼仏なり。法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り、此の経を信ずる者の前には滅後たりと雖も仏の在世なり。(定P123)
日蓮一門の弟子檀越の眼に映った師匠日蓮の姿は衆生を久遠仏のもとへ導く導師、まさに「久遠仏直参信仰の導師」そのものだったことでしょう。
◇日蓮は久遠仏への尊信を強調します。
文永元年12月13日「南条兵衛七郎殿御書」(真蹟断片)
御所労の由承り候はまことにてや候らん。世間の定めなき事は病なき人も留(とど)まりがたき事に候へば、まして病あらん人は申すにおよばず。但心あらん人は後世をこそ思ひさだむべきにて候へ。又後世を思ひ定めん事は私にはかな(叶)ひがたく候。一切衆生の本師にてまします釈尊の教こそ本にはなり候べけれ。(定P319)
中略
法華経の第二(譬喩品第三)に云く「今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護 雖復教詔 而不信受」等云云。此の文の心は、釈迦如来は此れ等衆生には親也、師也、主也。我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてましませども、親と師とにはましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる。親も親にこそよれ、釈尊ほどの親、師も師にこそよれ、主も主にこそよれ、釈尊ほどの師主はありがたくこそはべれ。この親と師と主との仰せをそむかんもの、天神地祇にすてたれたてまつらざらんや。不孝第一の者也。(定P320)
文永6年「法門可被申様之事」(真蹟)
法門申さるべきやう。選択をばうちを(置)きて、先づ法華経の第二の巻の今此三界の文を開きて、釈尊は我等が親父なり等定め了(おわ)るべし。(定P443)
中略
釈尊は我等が父母なり。一代の聖教は父母の子を教へたる教経なるべし。(同)
中略
教と申すは師親のをしえ、詔と申すは主上(しゅじょう)の詔勅(みことのり)なるべし。仏は閻浮第一の賢王・聖師・賢父なり。されば四十余年の経々につきて法華経へうつ(移)らず、又うつれる人々も彼の経々をすてゝうつ(移)らざるは、三徳を備へたる親父の仰せを用ひざる人、天地の中にすむべき者にはあらず。(定P445)
文永9年2月18日「八宗違目抄」(真蹟)
法華経第二(譬喩品第三)に云く「今此三界 皆是我有」主国王世尊也。「其中衆生 悉是吾子」親父也。「而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護」導師。寿量品に云く「我亦為世父」文。
(定P525)
文永9年「四条金吾殿御返事(梵音声書)」(日興本・北山本門寺蔵)
教主釈尊は一代の教主、一切衆生の導師なり。(定P664)
文永9年「祈祷抄」(真蹟曽存)
仏は人天の主、一切衆生の父母なり。而も開導の師なり。(定P676)
中略
釈迦仏独り主師親の三義をかね給へり。(定P677)
文永11年5月24日「法華取要抄」(真蹟)
此の土の我等衆生は五百塵点劫より已来教主釈尊の愛子なり。(定P812)
建治元年5月8日「一谷入道御書」(真蹟断片)
梵王の一切衆生の親たるが如く、釈迦仏も又一切衆生の親なり。又此の国の一切衆生のためには教主釈尊は明師にておはするぞかし。父母を知るも師の恩なり。黒白を弁ふるも釈尊の恩なり。
(定P992)
中略
此の国の人々は一人もなく教主釈尊の御弟子(みでし)御民ぞかし。(同)
建治3年6月「下山御消息」(真蹟断片)
抑釈尊は我等がためには賢父たる上、明師なり聖主なり。一身に三徳を備へ給へる仏の仏眼を以て、未来悪世を鑑み給ひて記し置き給へる記文に云はく「我涅槃の後、無量百歳」云云。仏滅後二千年已後と見へぬ。又「四道の聖人悉く復涅槃せん」云云。付法蔵の二十四人を指すか。「正法滅後」等云云。像末の世と聞こえたり。(定P1319)
建治3年6月25日「頼基陳状(三位房龍象房問答記)(龍象問答抄)」
(再治本写本・未再治本写本 北山本門寺蔵)
所謂「今此の三界は皆是我が有なり。其の中の衆生は悉く是吾が子なり」文。文の如くば教主釈尊は日本国の一切衆生の父母なり、師匠なり、主君なり。阿弥陀仏は此の三の義ましまさず。而るに三徳の仏を閣(さしお)いて他仏を昼夜朝夕に称名し、六万八万の名号を唱へまします。あに不孝の御所作にわたらせ給はずや。(定P1356)
弘安3年5月29日「新田殿御書」(真蹟)
使ひの御志限り無き者か。経は法華経、顕密第一の大法なり。仏は釈迦仏、諸仏第一の上仏なり。行者は法華経の行者に相似たり。三事既に相応せり。檀那の一願必ず成就せんか。
(定P1752)
弘安3年7月13日(或は建治3年)「盂蘭盆御書」(真蹟)
されば此等をもって思ふに、貴女は治部殿と申す孫を僧にてもち給へり。此の僧は無戒なり無智なり。二百五十戒一戒も持つことなし。三千の威儀一つも持たず。智慧は牛馬にるい(類)し、威儀は猿猴(えんこう)にに(似)て候へども、あを(仰)ぐところは釈迦仏、信ずる法は法華経なり。例せば蛇の珠(たま)をにぎり、竜の舎利を戴けるがごとし。(定P1775)
弘安3年9月6日「上野殿後家尼御前御書」(真蹟)
追申。此の六月十五日に見奉り候ひしに、あはれ肝ある者かな、男なり男なりと見候ひしに、又見候はざらん事こそかなしくは候へ。さは候へども釈迦仏・法華経に身を入れて候ひしかば臨終目出たく候ひけり。(定P1793)
弘安5年1月7日「四条金吾殿御返事(八日講御書)」(真蹟断片)
然るに日本国皆釈迦仏を捨てさせ給ひて候に、いかなる過去の善根にてや法華経と釈迦仏とを御信心ありて、各々あつ(集)まらせ給ひて八日をくやう(供養)申させ給ふのみならず、山中の日蓮に華かう(香)ををく(送)らせ候やらん、たうとし、たうとし。(定P1906)
◇日蓮は「久遠仏三界国主論」ともいうべき、久遠仏が三界の国主である教示を重ねています。
文永12年2月または建治3年8月21日「神国王御書」(真蹟)
仏と申すは三界の国主、大梵王・第六天の魔王・帝釈・日月・四天・転輪聖王・諸王の師なり、主なり、親なり。三界の諸王は皆此の釈迦仏より分かち給ひて、諸国の総領・別領等の主となし給へり。(定P881)
◇日蓮の宗教的世界観では「三界は皆、久遠仏の御所領である」ことが示されています。
系年、文永初期「断簡53」(真蹟)
是我有 其中衆生 悉是吾子等云云。この文のごとくならば、この三界は皆釈迦如来の御所領なり。寿量品に云く「我常に此の娑婆世界に在って」等云云。この文のごとくならば、過去五百塵点劫よりこのかた、此の娑婆世界は釈迦如来の御進退の国土なり。(定P2496)
北インドに誕生した人物としてのシャカが未来永遠に「常に此の娑婆世界に在って」法を説くことは有り得ず、日蓮が「釈迦仏、釈迦牟尼仏、釈迦如来、教主釈尊」という時、それは「久遠の仏・久遠仏」を意味することが理解できます。
◇日蓮は、五百塵点劫より娑婆世界は久遠仏の所領であることを説きます。
建治元年5月8日「一谷入道御書」(真蹟断片)
娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領なり。大地・虚空・山海・草木一分も他仏の有ならず。又一切衆生は釈尊の御子なり(定P992)
◇日蓮の宗教的世界観では日本国は久遠仏の御所領です。
建治3年6月「下山御消息」(真蹟断片)
法華経出現の後は已今当の諸経の捨てらるゝ事は勿論也。たとひ修行すとも法華経の所従にてこそあるべきに、今の日本国の人々、道綽が未有一人得者、善導が千中無一、慧心が往生要集の序、永観が十因、法然が捨閉閣抛等を堅く信じて、或は法華経を抛ちて一向に念仏を申す者もあり、或は念仏を本として助けに法華経を持つ者もあり、或は弥陀念仏と法華経とを鼻を並べて左右に念じて二行と行ずる者もあり、或は念仏と法華経と一法の二名也と思ひて行ずる者もあり。此れ等は皆教主釈尊の御屋敷の内に居して、師主をば指し置き奉りて、阿弥陀堂を釈迦如来の御所領の内に毎国毎郷毎家々並べ立て、或は一万二万、或は七万返、或は一生の間、一向に修行して主師親をわすれたるだに不思議なるに、剰へ親父たる教主釈尊の御誕生御入滅の両日を奪ひ取りて、十五日は阿弥陀仏の日、八日は薬師仏の日等云云。一仏誕入の両日を東西二仏の死生の日となせり。是れ豈に不孝の者にあらずや。逆路七逆の者にあらずや。人毎に此の重科有りて、しかも人毎に我が身は科なしとおもへり。無慚無愧の一闡提人也。(定P1339)
日蓮は浄土教を信奉する、また阿弥陀仏と法華経を並べ拝む、念仏を唱え法華経を読む等の浄土法華兼修信仰を批判。続いて日本での浄土教の展開を記述する中で、久遠仏に主師親がそなわること、日本国は久遠仏の御所領であるとの認識を示します。
◇日蓮の日本国に対する認識は「一乗(法華経)の御所領」です。
弘安3年1月27日「秋元御書(筒御器抄)」(日興写三行断片)
今法華宗の人人も又是くの如し。比叡山は法華経の御住所、日本国は一乗の御所領也。而るを慈覚大師は法華経の座主を奪取て真言の座主となし、三千の大衆も又其所従と成りぬ。(定P1737)
「一乗(法華経)の御所領」である日本国。
その国の仏法「日本の仏法」といえば、日蓮的には自らが身命をかけて弘めた日蓮的法華経信仰、即ち日蓮法華にほかならないといえるでしょう。
◇久遠仏の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足。
文永10年4月25日「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」(真蹟)
私に会通を加へば本文を黷(けが)すが如し、爾(しか)りと雖も文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。四大声聞の領解に云はく『無上宝聚、不求自得』云云。(定P711)
中略
一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹(つつ)み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ。(定P720)
日蓮は久遠仏の因行果徳の二法は、妙法蓮華経の五字に具足されると定義。この五字を受持することにより久遠仏の因果の功徳が信奉者に譲り与えられる、即ち「受持即観心、自然譲与」を説く。また末代無智の凡夫には久遠仏が大慈悲をおこして、妙法蓮華経の五字を授けるのであるとして、日蓮の宗教世界とその実践が易行であることを示します。
ここで意を留めるべきは「末代幼稚の頸に懸け」るという、その久遠仏の行いを実践しているのは日蓮なのであり、「教理面の確立」「信仰的振る舞い」という観点からは、日蓮は自らを久遠仏と同化させているということでしょう。即ち日蓮は「久遠仏の遣い(如来使)」から、末法に「久遠仏の慈悲の振る舞い」を示すという「久遠仏の体現者」へと、その内面が昇華されたことを示しているのではないでしょうか。
一方で日蓮は最晩年まで「久遠仏への信仰」を教導していますので、「日蓮は教導面では久遠仏直参信仰の導師であり、その内面世界は久遠仏の体現者、即ち末法の教主としての自覚が横溢していた」といえるのではないかと思います。
◇妙法曼荼羅本尊は久遠仏が五百塵点劫より心中におさめていた。
文永12年2月16日「新尼御前御返事(与東條新尼書)」(真蹟断片)
今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給ひて、世に出現せさせ給ひても四十余年、其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕はし、神力品嘱累品に事極まりて候ひしが、(定P866)
中略
我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり、此にゆづ(譲)るべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出ださせ給ひて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給ひて、あなかしこあなかしこ、我が滅度の後正法一千年、像法一千年に弘通すべからず。末法の始めに(定P867)
中略
此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶(たす)け万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱(のが)るべしと仏記しをかせ給ひぬ。而るに日蓮上行菩薩にはあらねども、ほゞ兼ねてこれをしれるは、彼の菩薩の御計らひかと存じて此の二十余年が間此を申す。(同)
日蓮が創案した妙法曼荼羅本尊について、久遠仏が五百塵点劫より心中におさめていたが、法華経の見宝塔品第十一から寿量品第十六を中心に神力品第二十一、嘱累品第二十二にかけての霊鷲山虚空会の12品に説き顕されたのであり、「此の御本尊=妙法蓮華経の五字=五字の大曼荼羅」は上行等の地涌の菩薩に譲られて末法の時を待ってはじめて弘通されるもの、と定義しています。日蓮は値難を重ねるごとに妙法曼荼羅本尊の図顕を始めとして、独自の法門展開をなしていきますが、それは久遠仏を源流とし、また久遠仏に還るものでもあったのです。
◇一大秘法は久遠仏より付属されたもの
文永12年3月10日「曾谷入道殿許御書」(真蹟)
今親(まのあた)り此の国を見聞(けんもん)するに、人毎に此の二の悪有り。此等の大悪の輩は何なる秘術を以て之を扶救(ふぐ)せん。大覚世尊、仏眼を以て末法を鑑知(かんち)し、此の逆・謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたまふ。(定P900)
中略
爾の時に大覚世尊寿量品を演説し、然して後に十神力を示現して四大菩薩に付嘱したまふ。其の所属の法は何物ぞや。法華経の中にも広を捨てゝ略を取り、略を捨てゝ要を取る。所謂妙法蓮華経の五字、名体宗用教の五重玄なり。(定P902)
中略
但此の一大秘法を持して本処(ほんじょ)に隠居するの後、仏の滅後、正像二千年の間に於て未だ一度も出現せず。所詮仏専ら末世の時に限って此等の大士に付嘱せし故なり。(同)
「曾谷入道殿許御書」で「一大秘法は久遠仏より付属された」と定義したことは、久遠以来の信仰の清流は日蓮にあり、正統にして正当であることを宣言したものではないでしょうか。
◇日蓮は「本門の教主釈尊を本尊とすべ」きことを説く
建治2年7月21日「報恩抄」(真蹟)
一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。(定P1248)
「本門の教主釈尊」が妙法曼荼羅であることは他の記事で触れましたが、妙法曼荼羅を本門の教主釈尊と表現したということは、即ち妙法曼荼羅即久遠仏と読み解けるように思います。日蓮は、「妙法曼荼羅本尊を一切衆生に説法教化して成仏へと導く久遠仏の当体として顕した」といえるのではないでしょうか。
◇一閻浮提第一の本尊
文永10年4月25日「観心本尊抄」(真蹟)
此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊は脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支・震旦に末だ此の本尊有さず。(定P720)
日蓮は当文で自界叛逆・他国侵逼の二難興起の時に、一閻浮提第一の本尊が日本国に立つことを示します。もっとも文永末以降、日蓮は図顕した妙法曼荼羅本尊の讃文として「仏滅度後二千二百二(三)十余年之間一閻浮提之内未曾有大漫荼羅也」と書き込んだわけですから、この讃文の持つ意からして、全ての妙法曼荼羅本尊は「一閻浮提第一の本尊」といえるのではないでしょうか。
◇日蓮の法華経中心の日本国王観
文永6年「法門可被申様之事」
又、御持仏堂にて法門申したりしが面目なんどかゝれて候事、かへすがへす不思議にをぼへ候。そのゆへは僧となりぬ。其の上、一閻浮提にありがたき法門なるべし。設ひ等覚の菩薩なりともなにとかをもうべき。まして梵天・帝釈等は我等が親父釈迦如来の御所領をあづかりて、正法の僧をやしなうべき者につけられて候。毘沙門等は四天下の主、此等が門まぼり、又四州の王等は毘沙門天が所従なるべし。其の上、日本秋津島は四州の輪王の所従にも及ばず、但島の長なるべし。(定P448)
日蓮は当書にて、
釈迦如来=久遠仏 > 大梵天王・帝釈天王=久遠仏の領地を預かり正法を弘める僧を供養する > 毘沙門天、持国天、広目天、増長天の四天王=四天下の主=大梵天王・帝釈天王の門番 > 四州の王等=毘沙門天王が所従(家来) > 四州の転輪王の所従(家来) > 日本秋津島の国主等=但島の長
という法華経を中心とした宗教世界と現実世界にまたがる重層的階層関係を記し、日本国王は四州の転輪王の所従にも及ばない統治者と位置付けて、縦に過去・現在・未来の三世、横に一閻浮提を包摂する日蓮法華の信仰世界の雄大さを示します。
◇日本国一同に日蓮が弟子檀那=法華経信奉者。
弘安元年3月21日「諸人御返事」(真蹟)
三月十九日の和風(つかい)並びに飛鳥(ふみ)、同じく二十一日戌(いぬ)の時到来す。日蓮一生の間の祈請(きしょう)並びに所願忽(たちま)ちに成就せしむるか。将又(はたまた)五五百歳の仏記宛(あたか)も符契(ふけい)の如し。所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合はせ是非を決せしめば、日本国一同に日蓮が弟子檀那となり、我が弟子等、出家は主上・上皇の師となり、在家は左右の臣下に列ならん。将又一閻浮提皆此の法門を仰がん。幸甚(こうじん)幸甚。(定P1479)
日蓮は諸宗との公場対決を行い、日本国一同に日蓮が弟子檀那となることを待望していました。その時には日蓮の弟子等は朝廷の師となり、在家は左右の臣下に列なるとしています。そして全世界が日蓮の教説を仰ぐことになるだろう、というのです。
日本国一同日蓮が弟子檀那となる、即ち法華経信奉者になるということは「久遠仏三界国主論を事相に顕現することを日蓮は期していた」ということがいえるのではないでしょうか。
◇日蓮は、日本は法華経流布の国であるとしています。
系年、正嘉3年・正元元年「守護国家論」(真蹟曽存)
問て云く 但法華の題目を聞くと雖も解心無くば如何にして三悪趣を脱れん乎。答て云く 法華経流布の国に生まれて此の経の題名を聞き信を生ずるは、宿善の深厚なるに依れり。設い今生は悪人無智なりと雖も必ず過去の宿善有るが故に此の経の名を聞いて信を致す者也。故に悪道に堕せず。(定P127)
中略
問て云く 日本国は法華・涅槃有縁の地なりや、否や。答て云く 法華経第八に云く「如来の滅後に於て閻浮提の内に、広く流布せしめて断絶せざらしめん」。七の巻に云く「閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」。涅槃経第九に云く「此の大乗経典大涅槃経も亦復是の如し。南方の諸の菩薩の為の故に当に広く流布すべし」已上経文。三千世界広しと雖も仏自ら法華・涅槃を以て南方流布の所と定む。南方の諸国の中に於ては、日本国は殊に法華経の流布すべき処也。(定P128)
日蓮の教示では、日本国は法華・涅槃有縁の地であり、法華経が流布する国となります。
◇日本国は大乗の中の一乗・法華経の国である。
文永8年5月「十章抄」(真蹟)
当世の念仏は法華経を国に失う念仏なり。設ひぜん(善)たりとも、義分あ(当)たれりというとも、先づ名をい(忌)むべし。其の故は仏法は国に随ふべし。天竺には一向小乗・一向大乗・大小兼学の国あ(相)ひわ(分)かれたり。震旦(しんだん)亦復(またまた)是くの如し。日本国は一向大乗の国、大乗の中の一乗の国なり。華厳・法相・三論等の諸大乗すら猶相応せず。何に況んや小乗の三宗をや。(定P491)
日蓮は、日本国はすべてが純粋に大乗仏教の国であり、大乗の中でも一乗・法華経の国である、と説示しています。
◇日本国において生死を離るべき法、日本国有縁の法。
文永元年12月13日「南条兵衛七郎殿御書」(真蹟断片)
抑日本国はいかなる教を習ってか生死を離るべき国ぞと勘えたるに、法華経に云く「閻浮提の内に、広く流布せしめて断絶せざらしめん」等云云。此の文の心は、法華経は南閻浮提の人のための有縁の経也。弥勒菩薩の云く「東方に小国有り。唯大機のみ有り」等云云。此の論の文の如きは、閻浮提の内にも東の小国に大乗経の機ある歟。肇公の記に云く「茲の典は東北の小国に有縁なり」等云云。法華経は東北の国に縁ありとかかれたり。安然和尚の云く「我が日本国皆大乗を信ず」等云云。慧心の一乗要決に云く「日本一州円機純一」等云云。釈迦如来・弥勒菩薩・須利耶蘇摩三蔵・羅什三蔵・僧肇法師・安然和尚・慧心先徳等の心ならば、日本国は純に法華経の機也。一句一偈なりとも行ぜば必ず得道なるべし。有縁の法なるが故也。(定P323)
日蓮は、日本国は法華経が有縁の法であり、この国は法華経の機であり、法華経を習って生死を離れるべき国であると教示します。その法華経を「一句一偈なりとも行ぜば必ず得道」とするのです。
◇仏が一切衆生に与えた経典・一切衆生が唱え成仏得道を期すべき経典
建治元年4月「法蓮抄」(真蹟曽存・真蹟断片)
今法華経と申すは一切衆生を仏になす秘術まします御経なり。所謂地獄の一人・餓鬼の一人乃至九界の一人を仏になせば、一切衆生皆仏になるべきことはり(理)顕はる。譬へば竹の節を一つ破(わ)りぬれば余の節(ふし)亦(また)破るゝが如し。
囲碁と申すあそびにしちゃう(征)と云ふ事あり。一つの石死ぬれば多くの石死ぬ。法華経も又此くの如し。金(かね)と申すものは木草を失ふ用を備へ、水は一切の火をけす徳あり。法華経も又一切衆生を仏になす用おはします。(定P943)
中略
仏は法華経をさとらせ給ひて、六道四生の父母孝養の功徳を身に備へ給へり。此の仏の御功徳をば法華経を信ずる人にゆづり給ふ。例せば悲母の食ふ物の乳となりて赤子を養ふが如し。「今此三界皆是我有、其中衆生悉是吾子」等云云。教主釈尊は此の功徳を法華経の文字となして一切衆生の口になめさせ給ふ。赤子の水火をわきまへず毒薬を知らざれども、乳を含めば身命をつぐが如し。(定P944)
中略
今の法蓮上人も又此くの如し。教主釈尊の御功徳御身に入りかはらせ給ひぬ。(定P945)
日蓮は一切衆生を仏とする秘術ある経典は法華経である、久遠仏は自らの功徳を法華経の文字に留めて一切衆生に唱えさせんとするのである、と教示。久遠仏が一切衆生に与えた法華経、一切衆生が唱え成仏得道を期すべき経典・法華経ですから、日蓮が「日本の仏法」という時それは日蓮法華を意味しているといえるでしょう。
◇若有聞法者 無一不成仏
弘安3年7月2日「千日尼御返事(阿仏房書)」(真蹟)
法華経に云く「若し法を聞くことあらん者は一りとして成仏せずということなけん」等云云。文字は十字にて候へども法華経を一句よみまいらせ候へども、釈迦如来の一代聖教をのこりなく読むにて候なるぞ。故に妙楽大師云く「若し法華を弘むるには、凡そ一義を消するも皆一代を混じて其の始末を窮めよ」等云云。(定P1759)
中略
此より外の阿含経・方等経・般若経等は五千・七千余巻なり。此等の経々は見ずきかず候へども、但法華経の一字一句よみ候へば、彼々の経々を一字もを(落)とさずよむにて候なるぞ。
譬(たと)へば月氏・日本と申すは二字、二字に五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国・無量の粟散国(ぞくさんこく)の大地・大山・草木・人畜等をさまれるがごとし。譬へば鏡はわづかに一寸・二寸・三寸・四寸・五寸と候へども、一尺・五尺の人をもうかべ、一丈・二丈・十丈・百丈の大山をもうつ(映)すがごとし。
されば此の経文をよみて見候へば、此の経をき(聞)く人は一人もか(欠)けず仏になると申す文なり。(定P1759)
中略
法華経に値(あ)はずばなにかせん。大悪もなげ(歎)く事なかれ、一乗を修行せば提婆が跡をもつぎなん。此等は皆無一不成仏の経文のむなしからざるゆへぞかし。(定P1761)
中略
追申。絹の染め袈裟一つまいらせ候。豊後房(ぶんごぼう)に申さるべし。既に法門日本国にひろまりて候。北陸道をば豊後房なびくべきに学生(がくしょう)ならでは叶ふべからず。九月十五日已前にいそぎいそぎまいるべし。
日蓮は「妙法蓮華経方便品第二」の「若有聞法者 無一不成仏」を引用し、「法華経を一句」読むのは「釈迦如来・久遠仏の一代聖教」を残らず読むのに等しく、聴聞者は一人も欠けることなく仏になると教示します。
追伸では、絹染の袈裟一つを送ったが、これは豊後房宛てのものであることを伝えるよう依頼。また北陸道は、豊後房が導師として教導すべきだが更に学問に励むよう促し、9月15日以前に急いで身延に来るように記します。その中で「既に法門は日本国に広まっている」としますが、日本国に広まっている法門とは文中で説示した「若有聞法者 無一不成仏」の経典、法華経といえるでしょう。
「法門申しはじめ」以降から変わることなく、弘安3年7月当時の日蓮は日本国に弘めている経典・法華経の功徳を力説するのです。
◇日蓮は久遠仏の使いとして「法華経最第一」を主張し、妙法蓮華経を弘めている。
系年文永9年「四条金吾殿御返事(梵音声書)」(日興本)
但し法華経に云く「若し善男子善女人我が滅度の後に能く竊かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん、当に知るべし是の人は則ち如来の使如来の所遣として如来の事を行ずるなり」等云云、法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり、然れば日蓮賎身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来れり、此れを一言もそしらん人人は罪を無間に開き一字一句も供養せん人は無数の仏を供養するにもすぎたりと見えたり。(定P664)
建治元年5月8日「一谷入道御書」(真蹟断片)
日蓮は愚かなれども、釈迦仏の御使ひ・法華経の行者なりとなのり候を(定P996)
建治元年「種種御振舞御書」(真蹟曽存)
日蓮は幼若の者なれども、法華経を弘むれば釈迦仏の御使ひぞかし(定P976)
建治3年9月9日「兵衛志殿御書」(真蹟断片)
今度は又此の調伏三度なり。今我が弟子等死したらん人々は仏眼をもて是を見給ふらん。命つれなくて生きたらん眼(まなこ)に見よ。国主等は他国に責めわたされ、調伏の人々は或は狂死、或は他国或は山林にかく(隠)るべし。教主釈尊の御使ひを二度までこうぢ(街路)をわたし、弟子等をろう(牢)に入れ、或は殺し或は害し、或は所国をお(逐)ひし故に、其の科(とが)必ず国々万民の身に一々にかゝ(罹)るべし。(定P1388)
◇日蓮は、久遠仏の教説を末法に伝える「如来の使い」とは、法華経弘通故の大難にあった自らであるとします。
文永9年2月「開目抄」(真蹟曽存)
日蓮だにも此の国に生まれずは、ほとをど(殆)世尊は大妄語の人、八十万億那由他の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし。(定P559)
日蓮より外の諸僧、たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ、刀杖等を加えらるる者ある。日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ。(同)
末法の始めのしるし、恐怖悪世中の金言のあうゆえに、但日蓮一人これをよめり。(定P560)
日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん。(同)
◇法難を経て妙法曼荼羅本尊を図顕している日蓮が自らを語る時、そこには、久遠仏の体現者としての自覚がうかがえるものが増えています。
建治元年5月8日「一谷入道御書」(真蹟断片)
日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし。(定P996)
建治3年6月「下山御消息」(真蹟断片)
余は日本国の人々には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり。一には父母也、二には師匠也、三には主君の御使也。(定P1331)
建治元年「撰時抄」(真蹟)
法華経をひろむる者は日本の一切衆生の父母なり。章安大師云く「彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」等云云。されば日蓮は当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、又主君なり。(定P1018)
上記遺文の「下山御消息」には
「抑釈尊は我等がためには賢父たる上、明師なり聖主なり。一身に三徳を備へ給へる仏の仏眼を以て~」(定P1319)とあり、
同じく「一谷入道御書」にも「梵王の一切衆生の親たるが如く、釈迦仏も又一切衆生の親なり。又此の国の一切衆生のためには教主釈尊は明師にておはするぞかし。父母を知るも師の恩なり。黒白を弁ふるも釈尊の恩なり。(定P992)~中略~此の国の人々は一人もなく教主釈尊の御弟子御民ぞかし。(同)」
と、久遠仏の主師親三徳を記しながらも、法難を経て妙法曼荼羅本尊を図顕している日蓮が自らを語る時、そこには、久遠仏の体現者としての自覚がうかがえるものが増えています。
日蓮の弘法によって久遠仏の教えは真実と証明され、姿形なき久遠仏が末法今の時、日蓮の法華経信仰世界には実在することになります。仏語・法華経を証明し、日本国の民を久遠仏・法華経へ誘う導師・日蓮から、久遠仏の「主師親三徳」を体現した日蓮へと、その内面が昇華していることがうかがえるのではないでしょうか。
2023.12.2
追記「まとめ」として
日蓮は立教より、専修唱題・法華経最第一を主張して久遠仏(文の表では教主釈尊)に還ることを説いた「久遠仏直参信仰を創りあげた導師」であり、文永8年の法難以降は妙法曼荼羅本尊を「大本尊」(万年救護本尊讃文)として即ち「末法の衆生が帰命礼拝する当体としての本尊」を顕し続け、「観心本尊抄」等でその法義を説いた。同時に日蓮に連なり、妙法を唱える者は久遠以来の久遠仏の弟子にして地涌の菩薩であることを教示し、門下一同にその自覚をうながした。
これら日蓮の行いと教示は妙法蓮華経如来寿量品第十六の「我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」との久遠仏の慈悲と教化を体現したもの、即ち「日蓮が末法の教主としての意識を抱いていた」と理解できるものであり、同時に立教以来の専修唱題による成仏とあわせての「日蓮が法門」の確立となった。
※『日蓮に連なり、妙法を唱える者は久遠以来の久遠仏の弟子にして地涌の菩薩であること』を教示した遺文。
諸法実相抄 文永10年5月
いかにも、今度、信心をいたして、法華経の行者にてとおり、日蓮が一門となりとおし給うべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば、釈尊久遠の弟子たること、あに疑わんや。経に云わく「我は久遠より来、これらの衆を教化せり」とは、これなり。末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は、男女はきらうべからず、皆地涌の菩薩の出現にあらずんば唱えがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱えしが、二人・三人・百人と次第に唱えつたうるなり。未来もまたしかるべし。これ、あに地涌の義にあらずや。あまつさえ、広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱えんことは、大地を的とするなるべし。
意訳
このたび、(日蓮法華の)信心をしたからにはどのようなことがあっても、法華経の行者として生き抜き、日蓮の一門となりとおしていきなさい。
日蓮と同意であるならば地涌の菩薩ではありませんか。地涌の菩薩であると定まっているならば、釈尊の久遠の弟子であることをどうして疑うことができるでしょう。法華経従地涌出品第十五に「これらの地涌の菩薩は、私が久遠の昔から教化してきたのである」と説かれているのはこのことです。
末法において妙法蓮華経の五字を弘める者は男女の分け隔てをしてはなりません。皆、地涌の菩薩が出現した人々でなければ唱えることのできない題目なのです。はじめは日蓮一人が南無妙法蓮華経と唱えましたが、二人・三人・百人と次第に唱え伝えてきたのです。未来もまた同様でしょう。これが地涌の義ではないでしょうか。そればかりか広宣流布の時は、日本中が一同に南無妙法蓮華経と唱えることは大地を的とするようなものなのです。
文中に久遠の弟子とあることから、釈尊とは北インド誕生のシャカではなく「妙法蓮華経如来寿量品第十六」に説示される久遠実成の釈尊、即ち久遠仏であることが理解でき、「妙法蓮華経従地涌出品第十五」の「久遠仏がはるかな過去より地涌の菩薩を教化してきた」文を引用していることにより、釈尊久遠の弟子=日蓮に連なり妙法を唱える者は久遠仏の弟子にして地涌の菩薩であることが鮮明にされています。
文永10年5月、佐渡で弟子(最蓮房)にこのような教示をしたということは、この頃の日蓮が同様の教示を弟子檀越へ行っていたと読み解けるのではないでしょうか。
「諸法実相抄」の教示からは、日蓮に連なり妙法を唱える弟子檀越は地涌の菩薩にして久遠仏の弟子であることが明確であり、このようなことを理解できるのは日蓮の存在があればこそですから、直截的な表現はなくとも「日蓮が一門」との表現は「日蓮の弟子」であることを意味しているともいえるでしょう。
⇒最古の写本である日朝本が「諸法実相抄」の本来の姿にして、真撰である可能性が高いことについては「法華仏教研究」27号の川﨑弘志氏の論考「『諸法実相抄』の考察」に詳しい。
2023.12.3