エミシとその時代 6 延暦16年(797)~弘仁2年(811)

延暦16年(797)

113

 天皇は陸奥国白川郡の人で外八位の大伴部足猪(おおともべのあしい)らに、大伴白河連の姓を与えました。他にも亘理(わたり)郡の人で五百木部黒人(いおきべのくろひと)に大伴曰理連を、黒河郡の人で外少初位上の大伴部真守(おおともべのまもり)、行方(なめかた)郡の人で外少初位上の大伴部兄人(おおともべのえひと)らに大伴行方連を、安積(あさか)郡の人で外少初位上の丸子部古佐美(まるこべのこさみ)、大田部山前(おおたべのやまざき)、富田郡の人・丸子部佐美(まるこべのさみ)、小田郡の人・丸子部稻麻呂(まるこべのいなまろ)らに大伴安積連を、遠田郡の人で外大初位上の丸子部八千代に大伴山田連を、磐瀬郡の人・に大伴宮城連の姓を与えました。

 

115

 天皇は従四位下の坂上大宿禰田村麻呂を征夷大将軍に任じ、副将軍等も置きました。

 

・「日本後紀」巻第五・延暦16(797) 桓武天皇

 

春正月・・・庚子。陸奥国白川郡人外八位大伴部足猪等賜大伴白河連。曰理郡人五百木部黒人大伴曰理連。黒河郡人外少初位上大伴部真守。行方郡人外少初位上大伴部兄人等大伴行方連。安積郡人外少初位上丸子部古佐美・大田部山前・富田郡人丸子部佐美。小田郡人丸子部稻麻呂等大伴安積連。遠田郡人外大初位上丸子部八千代大伴山田連。磐瀬郡人大伴宮城連。

 

十一月・・・丙戌。従四位下坂上大宿禰田村麻呂、為征夷大将軍。有副将軍等。

 

延暦17年(798)

621

 天皇は勅を下します。

「相模・武蔵・常陸・上野・下野・出雲等の国に居住する帰服した夷俘は、朝廷の恩沢により生活している。彼らに望郷の念を起こさせないようにするため、絶えず慈しみを加えるべきである。帰服した夷俘には毎年、季節ごとの服、禄物を支給するようにせよ。糧食が絶えた時には、直ちに恵み与えて憂いのないようにせよ。季節の饗宴は国司に命じて行わせ、報告させよ。他の恵みについは、上申した後に行うようにせよ」

 

・「日本後紀」巻第七・延暦17(798) 桓武天皇

 

六月・・・己亥。勅。

相模・武蔵・常陸・上野・下野・出雲等国 帰降夷俘 徳沢是憑。宜毎加撫恤 令無帰望。時服・禄物 毎年給之。其資粮罄絶。事須優恤。及時節饗賜等類 宜命国司 且行且申。自余所須 先申後行。

 

延暦18年(799)

221

 陸奥国新田郡の百姓である弓削部虎麻呂(ゆげべのとらまろ)と妻の丈部小広刀自女(はせつかべのこひろとじめ)らは長く賊地に住み、夷の言葉を習得していましたが、しばしば不遜な言葉で夷俘を扇動したことにより、天皇は夫妻らを日向国に配流しました。

 

34

 天皇は陸奥国柴田郡の人で外少初位下の大伴部人根(おおともべのひとね)らに、大伴柴田臣(おおとものしばたのおみ)の姓を与えました。

 

37

 陸奥国の富田郡が色麻(しかま)郡に、讃馬(さぬま)郡が新田(にいた)郡に、登米(とよま)郡が小田(おだ)郡に、それぞれ合併されました。

 

38

 天皇は出羽国の山夷(さんい・狩猟生活を主とする蝦夷)への禄支給を停止し、山夷と田夷(農耕生活の蝦夷)の別なく、功労のある者に禄を支給することにしました。

 

85

 常陸国が言上します。

「鹿島・那珂・久慈・多珂の4郡で、今月11日早朝から夜までに津波が15回おしよせました。大きいものは海岸線よりも1町ほど内陸におしよせ、引く時には20余町ほど遠ざかりました。海沿いに住む古老達は『このような津波は今まで見たことがない』と言っています」

 

1216

 陸奥国が言上します。

「俘囚の吉弥侯部黒田(きみこべのくろだ)と妻の吉弥侯部田苅女(きみこべのたかりめ)、さらに吉弥侯部都保呂(きみこべのつほろ)と妻の吉弥侯部留志女(きみこべのるしめ)らは賊の野蛮なる心を改めることなく、賊地を行き来しています」

 これにより4名は身柄を太政官へ送られ、土佐国へ配流されました。

 

・「日本後紀」巻第八・延暦18(799) 桓武天皇

 

二月・・・乙未。流陸奥国新田郡百姓弓削部虎麻呂。妻丈部小広刀自女等於日向国。久住賊地。能習夷語。屡以謾語騒動夷俘心也。

 

三月・・・戊申。陸奥国柴田郡人外少初位下大伴部人根等賜姓大伴柴田臣。

 

・・・辛亥。陸奥国富田郡併色麻郡。讃馬郡併新田郡。登米郡併小田郡。

 

壬子。停出羽国山夷禄。不論山夷田夷。簡有功者賜焉。

 

八月・・・丙子。常陸国言。鹿嶋。那加。久慈。多珂四郡。今月十一日。自晨至晩。海潮去来凡十五度。満則過常涯一町許。涸則踰常限廿余町。海畔父老僉云。古来所未見聞也。

 

十二月・・・陸奥国言。

俘囚吉弥侯部黒田。妻吉弥侯部田苅女。吉弥侯部都保呂。妻吉弥侯部留志女等。未改野心。往還賊地。因禁身進送。配土左国。 

 

延暦19年(800)

31

 出雲国介(いずものくにのすけ)で従五位下の石川朝臣清主(いしかわのあそみきよぬし)が言上します。

「俘囚らへの冬の衣服については、慣例により絹と麻布を交えて賜ることになっていますが、今回は前例を改めて、絹を支給しました。また、俘囚一人につき一町の乗田を支給して、富める百姓に耕作させてきました。新しく到着した俘囚60余人は寒い中、遠方より来ましたので、皆を優遇してやる必要があり、各人に絹一疋、綿一屯を支給。56日ごとに饗応し禄を賜い、毎月一日ごとに慰問するべきです。続けて百姓を招集して、俘囚の田畑を耕作させる予定です」

 

 これに対し天皇は勅を発します。

「俘囚の慰撫については 先に指示した通りである。しかしながら、清主は指示の意に反して饗応、賜物に多額な費用を要しており、俘囚に支給した田の耕作のことでも百姓を煩わせている。これらは皆、朝制とすべきものではない。また夷(えみし)の性質というものは貪欲であり、若し常に厚遇するならば、それを変えた時には怨みかねないので、今後は夷を厚遇するようなことがあってはいけない」

 

51

 陸奥国が言上します。

「帰服した夷俘は城塞の守りに着いたり国庁に勤める等、各々の仕事に励んでおります。賊のように荒々しい者を教育するには、威風と仁徳が必要です。若し、夷俘を優遇し賞を与えなければ、天子の威徳は失墜してしまう恐れがあります。今は夷俘の食料が不足しています。そこで30町分の収穫を以て夷俘の食費、生活費などに充てることを伏して要請いたします」

 天皇はこれを許可しました。

 

522

 甲斐国が言上します。

「甲斐国に移住した夷俘らは狼の如き野蛮な性格を改めることなく野心のままで、地元民に親しむことができず百姓ともめ事を起こし、婦女を勾引(かどわか)し牛馬を盗んでは自分の者として乗っています。もはや朝廷で掟を定めて頂かなければ、粗暴なる夷俘らを懲らしめることはできません」

 

 天皇は勅を下します。

「蝦夷を彼の地から離して国内に居住させるのは、野蛮な賊の生活を改めて皇民として生きられるよう教化するためである。彼らの野蛮な性情を放置して、良民に損失を与えるようなことがあってはならない。蝦夷については宜しく、国司が懇ろに教え諭して、それでもなおも改めることがなければ法に則って処罰するべきである。蝦夷が移住した諸国についても同様にせよ」

 

66

 駿河国が言上します。

「去る314日から418日まで、富士山が燃え上がり、吐き出す煙によって昼でも暗く、夜は火炎が天を照らす如く激しいものがあります。富士山は雷鳴のような音を発しながら灰を雨のように降らしており、山麓の川の水はみな紅色となってしまいました」

⇒富士山の噴火、「延暦大噴火」です。

 

1028

 天皇は征夷副将軍を任命しましたが、氏名の記録はありません。

 

116

 天皇は征夷大将軍・近衛権中将・陸奥出羽按察使・従四位上・陸奥守・鎮守将軍の坂上大宿禰田村麻呂(さかのうえのおおすくねたむらまろ)を諸国に派遣して、移住した蝦夷の監督をさせることにしました。

 

・「日本後紀」巻第九・延暦19(800) 桓武天皇

 

三月己亥朔。出雲国介従五位下石川朝臣清主言。

俘囚等冬衣服 依例須絹・布混給。而清主改承前例 皆以絹賜。又毎人給乗田一町 即使富民佃之。新到俘囚六十余人 寒節遠来 事須優賞。因各給絹一疋 綿一屯 隔五六日 給饗賜禄。毎至朔日 常加存問。又召発百姓 令耕其園圃者。勅。撫慰俘囚 先即立例。而清主任意失旨    饗賜多費。耕佃増煩 皆非朝制。又夷之為性 貪同浮壑。若不常厚 定動怨心。自今以後 不得更然。

 

五月・・・戊午。陸奥国言。

帰降夷俘 各守城塞 朝参相続 出入寔繁。夫馴荒之道 在威与徳。若不優賞 恐失天威。今夷俘食料 充用不足。伏請。佃卅町以充雑用。

許之。

己未。甲斐国言。

夷俘等狼性未改 野心難馴。或陵突百姓 奸略婦女 或掠取牛馬 任意乗用。自非朝憲 不能懲暴。

勅。

夫招夷狄以入中州 為変野俗以靡風化。豈任彼情 損此良民。宜国司懇々教喩。若猶不改 依法科処。凡厥置夷諸国 又同准此。

 

六月・・・癸酉。駿河国言。

自去三月十四日 迄四月十八日 富士山巓自焼。昼即烟気暗瞑 夜即火光照天。其声若雷 灰下如雨。山下川水 皆紅色也。

 

冬十月・・・癸巳。任征夷副将軍。

 

十一月・・・庚子。遣征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使従四位上兼行陸奥守鎮守将軍坂上大宿禰田村麻呂 検校諸国夷俘。 

 

延暦20年(801)

214

 天皇より、征夷大将軍である坂上田村麻呂に節刀が下賜されました。

 

927

 征夷大将軍である坂上宿禰田村麻呂らが言上します。

「私たちが聞いたところでは()ということです。賊である蝦夷を討ち平らげました」

 

1028

 征夷大将軍である坂上田村麻呂が天皇に節刀を返進しました。

 

117

 天皇が詔を発します。

()陸奥国の蝦夷らは数代の天皇にわたり、辺境を侵略して乱を起こし、百姓を殺害、略奪を重ねてきた。そこで従四位上の坂上田村麻呂大宿禰らを派遣して、賊を討伐、一掃することにした。()

 天皇は田村麻呂に従三位を授け、それ以外の者にも位を授けました。

 

・「日本後紀」巻第九・延暦20(801) 桓武天皇

 

二月・・・丙午。征夷大将軍坂上田村麻呂、賜節刀。

 

・「日本後紀」巻第十・延暦20(801) 桓武天皇

 

九月・・・丙戌。征夷大将軍坂上宿禰田村麻呂等言。臣聞。云々。討伏夷賊。

 

冬十月・・・丁巳。征夷大将軍坂上田村麻呂召進節刀。

 

十一月乙丑。詔曰。

云々。陸奥国乃蝦夷等 歴代渉時天 侵乱辺境、殺略百姓。是以 従四位上坂上田村麻呂大宿禰等乎遣天 伐平掃治之牟流尓。云々。田村麻呂授従三位。已下授位。 

 

延暦21年(802)

正月7

 天皇は五位以上の者と宴を催し、身分に応じて束帛(そくはく)を下賜しました。

 天皇は、征夷将軍が「霊験があった」と奏上してきた陸奥国の三神について、神階を上げました。

 

正月8

 天皇は、征夷軍の軍監以下軍士以上の者それぞれに、等級をつけて勲位を与えました。

 

 天皇は勅を下します。

「駿河国と相模国が『駿河国の富士山が昼夜を分かたず燃え続け、霰(あられ)のような砂礫を降らしている』と言ってきた。これについて占うと、干ばつと疫病の予兆だという。駿河・相模両国に命じて、神の怒りを鎮めて読経を行い、災を払うように」

 

正月9

 天皇は従三位の坂上大宿禰田村麻呂を現地に赴かせ、陸奥国に胆沢城(いさわじょう)を築造させることにしました。

 

正月11

 天皇が勅を下しました。

官軍は賊を討伐し、支配地を遠方にまで広げた。駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野等の各国は、国中の浪人4000人を陸奥国・胆沢城の柵戸とするように」

 

正月13

 出羽国・雄勝城の鎮兵の兵糧として、越後国の米10600石と佐渡国の塩120石を、毎年、現地に運ぶことになりました。

 

415

 造陸奥国胆沢城使・陸奥出羽按察使・従三位の坂上大宿禰田村麻呂らが言上します。

「夷大墓公阿弖流為(えみしおおものきみあてるい)と盤具公母礼(いわぐのきみもれ)らが500余人を率いて降伏しました」

 

710

 造陸奥国胆沢城使の田村麻呂が阿弖流為と母礼を従えて帰京します。

 

725

 多くの役人が上表を提出して、蝦夷の平定を喜び祝いました。

 

813

 夷大墓公阿弖流為と盤具公母礼らが斬刑とされました。

 阿弖流為と母礼は、朝廷側からは陸奥国でも奥地である胆沢地方の賊の首領と見られていました。二名を斬るに際して、将軍・坂上田村麻呂らは「この度は阿弖流為と母礼の願いを聞き入れて胆沢に帰し、賊を招いて取り込もうと思います」と申し出ました。しかし公卿らは自論に固執していて、「蝦夷は野蛮で獣のようであり、約束しても覆してしまう。朝廷の威厳によってようやく捕えた賊の長を、田村麻呂らが言うように陸奥国の奥地に放ち帰すというのは、虎を養って患いを後に残すようなものである」と主張して、阿弖流為と母礼を引き出して河内国の植山で斬刑に処してしまいました。

 

128

 天皇は鎮守軍監で外従五位下の道嶋宿禰御楯(みちしまのすくねみたて)を陸奥国大国造(おおきくにのみやっこ)に任じました。

 

・「日本後紀」巻第十・延暦21(802) 桓武天皇

 

春正月・・・甲子。宴五位已上 賜束帛有差。甲子。陸奥国三神加階。縁征夷将軍奏霊験也。

 

乙丑。加征夷軍監已下軍士已上勲 各有等級也。

 

是日。勅。駿河相摸国言。駿河国富士山 昼夜烜燎 砂礫如霰者。求之卜筮 占曰。干疫。宜令両国加鎮謝 及読経 以壤災殃。

 

丙寅。遣従三位坂上大宿祢田村麻呂 造陸奥国胆沢城。

 

戊辰。勅。官軍薄伐 闢地瞻遠。宜発駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野等国浪人四千人 配陸奥国胆沢城。

 

庚午。越後国米一万六百斛 佐渡国塩一百廿斛 毎年運送出羽国雄勝城 為鎮兵粮。

 

夏四月庚子。造陸奥国胆沢城使陸奥出羽按察使従三位坂上大宿禰田村麻呂等言。夷大墓公阿弖流為 盤具公母礼等 率種類五百余人降。

 

秋七月・・・甲子。造陸奥国胆沢城使田村麻呂来。夷大墓公二人並従。

 

己卯。百官抗表 賀平蝦夷。

 

八月・・・丁酉。斬夷大墓公阿弖流為・盤具公母礼等。此二虜者 並奥地之賊首也。斬二虜時 将軍等申云。此度任願返入 招其賊類。而公卿執論云。野生獣心 反覆無定。儻縁朝威獲此梟師 縦依申請 放還奥地 所謂養虎遺患也。即捉両虜 斬於河内国植山。

 

十二月・・・庚寅。鎮守軍監外従五位下道嶋宿禰御楯、為陸奥国大国造。 

 

延暦22年(803)

212

 越後国より米30石、塩30石が造志波城所(岩手県盛岡市西郊)に送られました。

 

36

 造志波城使で従三位・近衛中将の坂上田村麻呂が天皇に暇乞いをします。天皇より彩帛(さいはく)50疋、綿300(とん)が下賜されました。

 

425

 天皇は、摂津国の俘囚で勲六等の吉弥侯部子成(きみこべのねなり)ら男女8人と、陸奥国の勲六等・吉弥侯部押人(きみこべのおしひと)ら男女8人に雄谷(おたに)の姓を授けました。

 

・「日本後紀」巻第十・延暦22(803) 桓武天皇

 

二月・・・癸巳。令越後国米卅斛・塩卅斛、送造志波城所。

 

・「日本後紀」巻第十一・延暦22(803) 桓武天皇

 

三月・・・是日。造志波城使従三位行近衛中将坂上田村麻呂辞見。賜彩帛五十疋・綿三百屯。

 

夏四月・・・乙巳。摂津国俘囚勲六等吉弥侯部子成等男女八人、陸奥国勲六等吉弥侯部押人等男女八人、賜姓雄谷。

 

延暦23年(804)

正月15

 天皇は夷(えみし)第一等の浦田臣史閫儺(うらたのおみしこな)に外従五位下を授けました。

 

正月19

 蝦夷征討のため、武藏、上総、下総、常陸、上野、下野、陸奥等、諸国の糒(ほしいい)14315石と米9685石が、陸奥国小田郡の中山柵(なかやまのさく)へ運ばれました。

 

正月24

 従五位下の佐伯宿禰社屋(さえきのすくねもりや)が出羽守に任じられました。

 

正月28

 天皇は、刑部卿で陸奥出羽按察使・従三位の坂上大宿禰田村麻呂(さかのうえのおおすくねたむらまろ)を征夷大将軍に任じ、正五位下の百済王教雲(くだらのこにきしきょううん)と従五位下の佐伯宿禰社屋(さえきのすくねもりや)、従五位下の道嶋宿禰御楯(みちしまのすくねみたて)を副将軍に任じ、軍監8人、軍曹24人をおきました。

 

510

 陸奥国が言上します。

「斯波城(しわじょう)と胆沢郡家は162里も離れており、道中、山谷は険しく往来するのが大変です。途中に駅家(うまや)を置かなければ、危急の事態に対応できない恐れがあります。そこで小路(駅道の大・中・小の三等)にならい、一駅設置されることを伏してお願い申し上げます」

 天皇はこれを許可しました。

 

117

 陸奥国栗原郡に三つの新駅が置かれました。

 

1122

 出羽国が言上します。

「秋田城は建置以来40余年となりますが、痩せた土地では五穀が豊熟することもありません。位置的にも北辺に孤立した状態であり、事が起きた時に救援を求める官軍も近くにはいません。そこで秋田城を停廃して、河辺府を永く防衛拠点とすることを伏して要望致します」

 これに対し、秋田城を停廃してその地を秋田郡とし、土人・浪人の分け隔てなく地域の者は秋田郡の民とせよ、と令されました。

 

・「日本後紀」巻第十二・延暦23(804) 桓武天皇

 

春正月・・・夷第一等浦田臣史閫儺授外従五位下。

 

乙未。運武藏。上総。下総。常陸。上野。下野。陸奥等国糒一万四千三百十五斛。米九千六百八十五斛於陸奥国小田郡中山柵。為征蝦夷。

 

庚子。・・・従五位下佐伯宿禰社屋為出羽守。

 

甲辰。刑部卿陸奥出羽按察使従三位坂上大宿禰田村麻呂為征夷大将軍。正五位下百済王教雲。従五位下佐伯宿禰社屋。従五位下道嶋宿禰御楯為副。軍監八人。軍曹廿四人。

 

五月・・・癸未。陸奥国言。斯波城与胆沢郡。相去一百六十二里。山谷嶮。往還多艱。不置郵駅。恐闕機急。伏請准小路例。置一駅。

許之。

 

十一月戊寅。陸奥国栗原郡。新置三駅。

 

癸巳。出羽国言。

秋田城 建置以来卌余年。土地墝埆。不宜五穀。加以孤居北隅。無隣相救。伏望永従停廃。保河辺府者。宜停城為郡。不論土人浪人。以住彼城者編附焉。

 

延暦24年(805)

25

 相模国が言上します。

「年来、相模国より鎮兵350人を陸奥・出羽の両国に派遣していますが、当国では雑徭(ぞうよう・地水灌漑工事などの労役形態の租税制度)として仕える徭丁(ようてい)が少なくなってしまい、帯勲者が多数となっています。そこで鎮兵を分けて半分は勲位の者より、もう半分は白丁(はくちょう・徭丁)より徴発して兵士とすることを伏してお願い申し上げます」

 天皇はこれを許可しました。

 

1023

 野心を改めず縷々国法に違反したとして、播磨国の俘囚・吉弥侯部兼麻呂(きみこべのかねまろ)と吉弥侯部色雄(きみこべのしこお)10人が多褹嶋(種子島)へ配流されました。

 

1113

 陸奥国の海道(太平洋岸沿い)諸郡の伝馬が、不要になったとして停止されました。

  

127

 中納言・近衛大将・従三位の藤原朝臣内麻呂(ふじわらのあそみうちまろ)が前殿に侍しているところで勅があり、参議・右衛士督・従四位下の藤原朝臣緒嗣(ふじわらのあそみおつぐ)と参議・左大弁・正四位下の菅野朝臣真道(すがののあそみまみち)とに、天下の徳政について議論させました。

 緒嗣は「今、天下の苦しみは蝦夷征討と平安京の造営です。この両事を停止すれば、人民は安らぎを得ることができます」と述べましたが、真道は異議を述べて固執、譲りませんでした。天皇は緒嗣の案を以て善しとし、直ちに蝦夷征討と京の造営を停廃することにしました。桓武天皇の決断を聞いた有識者は皆、感嘆しました。

 

・「日本後紀」巻第十二・延暦24(805) 桓武天皇

 

二月乙巳。相摸国言。頃年差鎮兵三百五十人。戍陸奥・出羽両国。而今徭丁乏少。勲位多数。伏請中分鎮兵。一分差勲位。一分差白丁。

許之。

 

・「日本後紀」巻第十三・延暦24(805) 桓武天皇

 

冬十月・・・戊午。播磨国俘囚吉弥侯部兼麻呂。吉弥侯部色雄等十人配流於多褹嶋。以不改野心。屢違朝憲也。

 

十一月・・・戊寅。停陸奥国部内海道諸郡伝馬。以不要也。

 

十二月・・・是日。中納言近衛大将従三位藤原朝臣内麻呂侍殿上。有勅。令参議右衛士督従四位下藤原朝臣緒嗣。与参議左大弁正四位下菅野朝臣真道相論天下徳政。于時緒嗣議云。方今天下所苦。軍事与造作也。停此両事。百姓安之。真道確執異議。不肯聴焉。帝善緒嗣議。即従停廃。有識聞之。莫不感歎。 

 

大同元年(806)

317

 桓武天皇が内裏正殿で死去しました。

 

103

 平城天皇が勅を下しました。

「帰服した蝦夷=夷俘らは教化を慕い内地に住んでいる。夷俘らを要害の地に居住させれば、不慮の事態に備えることができよう。そこで近江国に住む夷俘640人を大宰府に移して、防人とするように。大宰府においては、国毎に掾(じょう)一人以上を夷俘専門の担当とせよ。夷俘の労役、処罰については平民と同列にすべきではない。情状を考慮して対応し、夷俘の野心を刺激してはいけない。彼らへの禄物、衣服、公粮(こうろう・食料)、口分田などは男女を問うことなく、前格によって支給せよ。但し、防人の食料については()。口分田は以前の防人が耕していた乗田を、永く支給するように。さる年に置いた防人411人については皆、停廃するように」

 

・「日本後紀」巻第十三・大同元年(806) 第50代・桓武天皇⇒第51代・平城(へいぜい)天皇

 

三月・・・有頃天皇崩於正寝。

 

・「日本後紀」巻第十五・大同元年(806) 平城天皇

 

冬十月・・・壬戌。勅。夷俘之徒。慕化内属。居要害地。足備不虞。宣在近江国夷俘六百卌人。遷大宰府置。為防人。毎国掾已上一人。専当其事。駆使・勘当。勿同平民。量情随宣。不忤野心。禄物・衣服。公粮・口田之類。不問男女。一依前格。但防人之粮終□。永給口分田者。以前防人乗田等給之。其去年所置防人四百十一人。皆宣停廃。 

 

大同2年(807)

39

 以下のことが制定されました。

「帰服した蝦夷=夷俘について、功有る者には位を授けているが、現在の陸奥国司は判断基準があいまいなまま選出しては位階を授け、或いは村長に任命したりしている。いたずらに授位を行っていたのでは何の意味もなく、無駄な出費が重なるばかりである。これより後はみだりに授位を行ってはならない。若し、功績があり褒賞が必要ならば按察使(あぜち)が処分してから授けるようにせよ。国司においてはみだりに行うものではない」

 

・「日本後紀」巻第十五・大同2(807) 平城天皇

 

三月・・・丁酉。制。夷俘之位、必加有功。而陸奥国司、遷出夷俘、或授位階、或補村長。寔繁有徒、其費無極。自今以後、不得輒授。若有功効灼然、酬賞無已者、按察使処分、然後叙補。不得国司輒行。 

 

大同3年(808)

528

 天皇は従六位下の坂上大宿禰大野(さかのうえのおおすくねおおの)に従五位下を授け、陸奥鎮守副将軍に任じました。また従四位上の藤原朝臣緒嗣(ふじわらのあそみおつぐ)を東山道観察使に任じ、陸奥出羽按察使を兼務させました。

 尚、緒嗣は61日に、陸奥出羽按察使として職責が全うできなくても許されるよう、天皇に言上しています。

 

69

 天皇は鎮守将軍で従五位下の百済王教俊(くだらのこにきしきょうしゅん)を兼陸奥介に任じ、従五位下の坂上大宿禰大野(さかのうえのおおすくねおおの)を陸奥権介に任じ、外従五位下の道嶋宿禰御楯(みちしまのすくねみたて)を陸奥鎮守副将軍に任じました。

 

74

 天皇が勅を下しました。

「そもそも鎮守府の将の任務というものは、辺境にあって敵を寄せつけない万全の守りを固めることであり、不慮の事態が起きた時に対応できないようなことがあってはならない。今、聞くところでは、『鎮守将軍・従五位下・兼陸奥介の百済王教俊は常に陸奥国府(多賀城)にいて、遠く離れた鎮守府(胆沢城)にはいない』ということである。辺境を守る将がこのようなことで、非常時の緊急対応ができるのだろうか。以後は態度を改めて辺境の任につくように」

 

716

 天皇が勅を下しました。

「陸奥鎮守府の官人については従来、任期の定めがなかった。これより後は国司と同じ任期(6)とせよ。医師の任期は8年とせよ」

 

1217

 東山道観察使・正四位下・右衛士督・陸奥出羽按察使である藤原朝臣緒嗣が「官職と封戸を返上し他国の長官となりたい」旨を言上しますが、天皇は勅により許可しませんでした。

 

・「日本後紀」巻第十七・大同3(808) 平城天皇

 

五月・・・己酉。従六位下坂上大宿禰大野授従五位下。・・・従四位上藤原朝臣緒嗣為東山道観察使。・・・従四位上藤原朝臣緒嗣為陸奥出羽按察使。・・・従五位下坂上大宿禰大野為陸奥鎮守副将軍。

 

六月・・・庚申。・・・鎮守将軍従五位下百済王教俊為兼陸奥介。従五位下坂上大宿禰大野為権介・・・外従五位下道嶋宿禰御楯為陸奥鎮守副将軍。

 

秋七月・・・甲申。勅。夫鎮将之任。寄功辺戍。不慮之護。不可暫闕。今聞。鎮守将軍従五位下兼陸奥介百済王教俊。遠離鎮所。常在国府。儻有非常。何済機要。辺将之道。豈合如此。自今以後。莫令更然。

 

丙申。勅。陸奥鎮守官人。遷代之期。未有年限。宜自今以後。一同国司。其医師以八考為限。

 

十二月・・・甲子。東山道観察使正四位下兼行右衛士督陸奥出羽按察使臣藤原朝臣緒嗣言。(後略) 

 

大同4年(809)

正月16

 天皇は従五位下の佐伯宿禰耳麻呂を陸奥鎮守将軍に任じました。

 

323

 東山道観察使・正四位下・右衛士督(うえじのかみ)・陸奥出羽按察使の藤原朝臣緒嗣が辺境へ着任するため、内裏へ暇乞いをしました。天皇は緒嗣を殿上へ招き、典侍(ないしのすけ)・従五位上の永原朝臣子伊太比(ながはらのあそみこいたび)を介して衣一襲(きぬひとかさね)と被等を下賜しました。

 

41

 第52代・嵯峨天皇が即位しました。

 

・「日本後紀」巻第十七・大同4(809) 平城天皇

 

春正月・・・癸巳。・・・従五位下佐伯宿禰耳麻呂為陸奥鎮守将軍。

 

三月・・・戊辰。・・・是日。東山道観察使正四位下兼行右衛士督陸奥出羽按察使藤原朝臣緒嗣。為入辺任。辞見内裏。召昇殿上。令典侍従五位上永原朝臣子伊太比賜衣一襲・被等。

 

・「日本後紀」巻第十八・大同4(809) 嵯峨天皇

 

夏四月戊子。皇太弟受禅 即位於大極殿。皇太弟謂嵯峨天皇。

 

弘仁元年(810)

512

 東山道観察使・正四位下・陸奥出羽按察使の藤原朝臣緒嗣が言上します。

「国は民を以て本となし、民は食を以て命を保ちます。しかるに鎮兵3800人の1年の粮料として50余万束を陸奥・出羽の両国は負担するため、百姓は疲弊し倉庫の米もなくなっている状態です。かといって食糧の蓄積を怠ると、非常時に賊の攻撃を防ぐことができません。今までは蝦夷征伐が行われる度に、必ず坂東諸国に仰せつけて軍粮を用意させてきましたが、これよりは坂東諸国の官稲(かんとう)を陸奥国の公廨(くがい)として充て、陸奥国の公廨を官庫に収め留めることを伏して請願いたします。このようにいたしますと、公私ともに場所を得て民の負担も和らぐことでしょう」

 天皇はこの言上を許可しました。

 

513

 藤原朝臣緒嗣が再び言上します。

「また陸奥国では元来、国司と鎮官らは各人、差をつけて公廨を支給され、米4000余石を舂()き人を雇い運ばせて、その年の粮料に充てています。長年このようにやってきましたが、法的な根拠はありません。但し、辺境では国の中央とは頗る異なることもあります。それは苅田(かつた)郡以北の近郡の稲は軍粮とし、信夫(しのぶ)郡以南の遠郡の稲を公廨に充てていることによります。これら遠郡は国府(多賀城)から2300里、城柵(胆沢城・志波城等)からは7800里も離れていて、事力(官人の従者)の力を以てしても、舂いて運ぶのは難しいものがあります。若し従来のやり方を停止すれば、国府・鎮守府は飢餓状態に陥ってしまいます。そこで公廨を舂()き運送にかかる費用を支給して頂き、法として行われることを請願いたします」

 天皇はこの言上を許可しました。

 

916

 天皇は参議で正四位上の文室朝臣綿麻呂(ふんやのあそみわたまろ)を大蔵卿(おおくらきょう)兼陸奥出羽按察使に任じました。

 

・「日本後紀」巻第十九・弘仁元年(810) 嵯峨天皇

 

五月・・・辛亥・・・東山道観察使正四位下兼陸奥出羽按察使藤原朝臣緒嗣言。云々。

国以民為本。民以食為命。而鎮兵三千八百人 一年粮料五十余万束。因此百姓麋弊 倉廩空虚。如無蓄積 何防非常。加以往年毎有征伐 必仰軍粮於坂東国。伏請以坂東官稲 充陸奥公廨 以陸奥公廨 留収官庫。然則公私得所 実愜便宜。

並許之。

壬子。東山道観察使正四位下兼陸奥出羽按察使藤原朝臣緒嗣言。云々。

又陸奥国 元来国司・鎮官等 各以公廨作差 令舂米四千余斛 雇人運送 以充年粮。雖因循年久 於法無拠。但辺要之事 頗異中国。何者苅田以北近郡稲支軍粮 信夫以南遠郡稲給公廨。其去国府二三百里 於城柵七八百里 事力之力 不可舂運。若勘当停止 必致飢餓。請給舂運功 為例行之。

並許之。

 

・「日本後紀」巻第二十・弘仁元年(810) 嵯峨天皇

 

九月・・・癸丑。・・・参議正四位上文室朝臣綿麻呂為大蔵卿兼陸奥出羽按察使。

 

弘仁2年(811)

正月11

 陸奥国に和我(わが)・薭縫(ひえぬい)・斯波(しわ)の三郡が設置されました。

 

320

 天皇は陸奥出羽按察使で正四位上の文室朝臣綿麻呂(ふんやのあそみわたまろ)、陸奥守で従五位上の佐伯宿禰清岑(さえきのすくねきよみね)、陸奥介で従五位下の坂上大宿禰鷹養(さかのうえのおおすくねたかかい)、鎮守将軍で従五位下の佐伯宿禰耳麻呂(さえきのすくねみみまろ)、副将軍で外従五位下の物部匝瑳連足継(もののべのそうさのむらじあしつぐ)らに勅します。

 

 去る25日の奏には「陸奥・出羽両国の兵士を合わせて26千人を動員して爾薩体(にさったい)、幣伊(へい)の二村を征討することを承認願います」とある。将軍らの願い通り兵を動員して賊を討滅せよ。征討軍の力により後に煩いを残さないようにすべきである。また39日の奏では軍士を一万人減らしたという。将軍らは国を憂い心中深く考えて奏上をしたのであろうが、征討にあたっては兵力が必要であるから軍士を減らす必要はない。将軍らはこの旨を知り互いに心と力を合わせて征討を完遂すべきである。

 

 戦いでは、出羽守で従五位下の大伴宿禰今人(おおとものすくねいまひと)が謀をめぐらし、勇敢なる俘囚300余人をもって雪中、賊の不意打ちを行い、爾薩体の蝦夷60余人を殺しました。今人の名は一時に知れわたり、後にまで伝えられました。

 

417

 天皇は正四位上の文室朝臣綿麻呂を征夷将軍に任じ、従五位下の大伴宿禰今人、佐伯宿禰耳麻呂、坂上大宿禰鷹養を征夷副将軍に任じました。

 二日後には勅を発して征討の努力を促しています。

 

523

 大納言正三位兼右近衛大将兵部卿の坂上大宿禰田村麻呂が死去しました。

 

73

 出羽国の鎮兵らは辺境防衛のために家業が廃絶する事態となっているため、天皇は鎮兵に三年間課税免除を行うことにしました。

 

714

 天皇は征夷将軍正四位上兼陸奥出羽按察使の文室朝臣綿麻呂らに勅を発しました。

「今月4日の奏状では、俘軍一千人を吉弥侯部於夜志閉(きみこべのおやしべ)らに委ね、弊伊村を襲伐すべきである、としている。かの村の夷俘は勢力があるので、もし少人数で戦いに臨めば機を失してしまう恐れがある。よって陸奥・出羽両国の俘軍を各一千名動員して、来る89月に左右に軍勢を配置して攻撃するのが良策であろう。将軍は副将軍及び両国司らと再三討議した上で、作戦計画書を奏上せよ。これは国の大事であり、決して軽々しい戦略であってはならない」

 

729

 出羽国が奏上します。

邑良志閉(おらしべ)村の帰順した夷である吉弥侯部都留岐(きみこべのつるき)が「私達は爾薩体(にさったい)村の夷・伊加古(いかこ)らと長年対立してきました。今、伊加古らは兵を集め訓練して都母(つも)村に居住し、幣伊(へい)村の夷を誘い、邑良志閉村の私達を討つつもりです。そこで伏して兵粮を請い、我らが先に伊加古らを襲撃したいと思います」と申し出てきました。

ここで対応を考えますに、賊を以て賊を討伐するのは軍国の利でありますので、吉弥侯部都留岐らに米百斛(こく)を支給して励まし、彼らの計略を実行させたいと考えます。

 天皇はこの奏上を許可しました。

 

104

 天皇は征夷将軍参議正四位上大蔵卿兼陸奥出羽按察使の文室朝臣綿麻呂らに勅を発しました。

「去る922日の奏上では、『情勢を分析して我が軍勢を四方面に展開させましたが、少ない兵士を多方面に配置せねばならず、加えて長雨により軍糧、物資の補充が滞っています。このままでは欠乏状態となってしまい、軍を動かすのに支障の出る恐れがあります。伏して、陸奥国の兵士千百人を補充、動員することを願います』とあった。この奏上を許可する」

 

1013

 天皇は征夷将軍参議正四位上行大蔵卿兼陸奥出羽按察使の文室朝臣綿麻呂らに勅を発しました。

「今月5日の奏状では、多くの蝦夷を殺害、捕らえている。降伏する者も相当数である。士卒らが戦功をあげ、将軍らの計略が功を奏していることが窺われる。蝦夷については、申し出により国内へ移配すべきである。ただし帰順している俘囚は事情を考え、その地に留まり居住してもよいであろう。彼らに教え諭して騒ぎが起きないようにせよ。また、新たに捕らえた蝦夷については、将軍らの奏により、早速、朝廷に進上せよ。ただし、人数が多いので、道中、諸国が必要なものを十分に供給するのは難しいであろう。そこで体力のある者には歩行させ、弱体の者は馬を使用せよ」

 

1213

 天皇は詔を発しました。

陸奥国の蝦夷らは天皇の代々にわたり乱を起こし辺境を侵略し、百姓を殺害してきた。そこで桓武天皇の時に故従三位大伴宿禰弟麻呂らが征討に向かい現地を平定したが、討伐を逃れた賊の活動は続き余燼はくすぶり続けたままであった。また、故大納言坂上大宿禰田村麻呂らを派遣して遠く閉伊(へい)村まで征服したのだが、賊の一部は山谷に逃げ隠れて潰滅させることはできなかった。よって、正四位上文室朝臣綿麻呂らを征討に向かわせ、勢力の弱まってきた蝦夷を討伐させた。征討の副将軍らは各位が心を合わせて軍略をめぐらして身命を惜しまずに奮戦し、今まで討伐を免れていた奥地まで攻め込み、賊の巣穴をもれなく破壊し、遂には一人として残すこなく蝦夷を殲滅した。よって辺境の防備は解除でき、軍糧補充の必要もなくなった。長年の懸案であった蝦夷を平定した彼らの功労は大とすべきで、位を上げるに十分なものがある。功績の大小により、彼らの位を上げることにする」

 

 そこで天皇は、正四位上の文室朝臣綿麻呂に従三位を授け、従五位下の佐伯宿禰耳麻呂に正五位下を、従五位下の大伴宿禰今人と坂上大宿禰鷹養に従五位上を、外従五位下の物部匝瑳連足継に外従五位上を授けました。

 

1211

 征夷将軍参議従三位行大蔵卿兼陸奥出羽按察使の文室朝臣綿麻呂が奏言しました。

「この度、官軍が一挙に攻勢をしかけ蝦夷を悉く討ち取りました。事が成りましたからには鎮兵は廃止して百姓を安堵すべきですが、城柵等に搬入する武器と軍糧が大量にありますので、それが終わるまでは守備の兵士が必要となります。伏して兵士千人を配置して警備にあてることを要望します。

志波城は近くに川が流れており水害に遭うことも度々ありますので、適地に移転すべきと考えます。伏して、二千の兵で城の守備にあたり、移転が完了しましたら千人は防衛のために残して他の者は復員させて頂くことを要望いたします。

また有事への備えを怠らないのが兵士というものですが、既に軍事上の煩いがなくなったからには兵士を置く必要がありません。ただし辺境の守りを疎かにするわけにはいきませんので、伏して、二千の兵を置き他は復員させることを要望いたします。

宝亀5年より当年に至るまでの38年間、辺境では騒乱が絶えることなく戦いは止みませんでした。ために幅広い年代層が征討の戦いや軍事物資などの負担に疲れ、百姓は困窮して休まることがありません。そこで、伏して、四年間は税を免除して頂き、様々な方面の疲弊を休ませてくださるよう要望します。鎮兵については順に招集して、現役となる者については税を免除したいと思います」

 綿麻呂の奏言は許可されました。

 

・「日本後紀」巻第二十一・弘仁2(811) 嵯峨天皇

 

春正月・・・丙午。於陸奥国。置和我。薭縫。斯波三郡。

 

三月・・・甲寅。勅陸奥出羽按察使正四位上文室朝臣綿麻呂。陸奥守従五位上佐伯宿禰清岑。介従五位下坂上大宿禰鷹養。鎮守将軍従五位下佐伯宿禰耳麻呂。副将軍外従五位下物部匝瑳連足継等曰。去二月五日奏偁。請発陸奥出羽両国兵合二万六千人。征爾薩体。幣伊二村者。依数差発。早致襲討。事期殄滅。不得労軍以遺後煩。又得三月九日奏。知減軍士一万人。将軍等。憂国之情。中心是深。然而捜窮巣窟。衆力是資。故依先奏。不労減定。将軍等宜知之。勠力同意。相共畢功。于時出羽守従五位下大伴宿禰今人。謀発勇敢俘囚三百余人。出賊不意。侵雪襲伐。殺戮爾薩体余櫱六十余人。功冠一時。名伝不朽也。

 

夏四月・・・庚辰。正四位上文室朝臣綿麻呂為征夷将軍。従五位下大伴宿禰今人。佐伯宿禰耳麻呂。坂上大宿禰鷹養為副。

 

五月・・・丙辰。大納言正三位兼右近衛大将兵部卿坂上大宿禰田村麻呂薨。

 

秋七月乙未。出羽国鎮兵賜復三年。以在辺戍家業絶亡也。

 

丙午。勅征夷将軍正四位上兼陸奥出羽按察使文室朝臣綿麻呂等曰。省今月四日奏状。具知以俘軍一千人。委吉弥侯部於夜志閉等。可襲伐弊伊村。彼村夷俘。当類巨多。若以偏軍臨討。恐失機事。仍欲発両国俘軍各一千。来八、九月之間。左右張翼。前後奮。宜与副将軍及両国司等。再三詳議。具状奏上。国之大事。不可軽略。

 

出羽国奏。邑良志閉村降俘吉弥侯部都留岐申云。己等与弐薩体村夷伊加古等。久構仇怨。今伊加古等。練兵整衆。居都母村。誘幣伊村夷。将伐己等。伏請兵粮。先登襲撃者。臣等商量。以賊伐賊。軍国之利。仍給米一百斛。奨励其情者。許之。

 

冬十月・・・乙丑。勅征夷将軍参議正四位上大蔵卿兼陸奥出羽按察使文室朝臣綿麻呂等曰。省去九月廿二日奏云。随機量便。更分四道。士卒数少。充用処多。加以霖雨無息。転餉有滞。不加軽重。恐乏兵糧。伏望点加陸奥国軍士一千一百人者。依奏。

 

甲戌。勅征夷将軍参議正四位上行大蔵卿兼陸奥出羽按察使文室朝臣綿麻呂等曰。省今月五日奏状。斬獲稍多。帰降不少。将軍之経略。士卒之戦功。於此而知矣。其蝦夷者。依請須移配中国。唯俘囚者。思量便宜。安置当土。勉加教喩。勿致騒擾。又新獲之夷。依将軍等奏。宜早進上。但人数巨多。路次難堪。其強壮者歩行。羸弱者給馬。

 

十二月・・・甲戌。詔曰。天皇詔旨良麻止勅命乎。衆聞食止宣。陸奥国乃蝦夷等。歴代渉時弖。侵乱辺境。殺略百姓。是以掛畏柏原朝庭乃御時尓。故従三位大伴宿禰弟麻呂等乎遣弖。伐平之米給比支。而余燼猶遺弖。鎮守未息。又故大納言坂上大宿禰田村麻呂等乎遣弖。伐平之米給不尓。遠閉伊村乎極弖。略掃除弖之可止毛。逃隠山谷弖。尽頭弖究殄己止不得奈利尓太利。因茲正四位上文室朝臣綿麻呂等乎遣弖。其傾覆勢尓乗弖。伐平掃治之牟流尓。副将軍等。各同心勠力。忘殉心以弖。不惜身命。勤仕奉利。幽遠久薄伐。巣穴乎破覆之弖。遂其種族乎絶弖。復一二乃遺毛無。辺戎乎解却。転餉乎毛停廃都。量其功労波。上治賜尓足止奈毛御念須。故是以其仕奉状乃重軽乃随尓。冠位上賜比治賜久止宣天皇御命乎。衆聞食止宣。

正四位上文室朝臣綿麻呂授従三位。従五位下佐伯宿禰耳麻呂正五位下。従五位下大伴宿禰今人。坂上大宿禰鷹養従五位上。外従五位下物部匝瑳連足継外従五位上。

 

閏十二月・・・辛丑。征夷将軍参議従三位行大蔵卿兼陸奥出羽按察使文室朝臣綿麻呂奏言。今官軍一挙。寇賊無遺。事須悉廃鎮兵。永安百姓。而城柵等所納器仗・軍粮。其数不少。迄于遷納。不可廃衛。伏望置一千人充其守衛。其志波城。近于河浜。屡被水害。須去其処。遷立便地。伏望置二千人。蹔充守衛。遷其城訖。則留千人。永為鎮戍。自余悉従解却。又兵士之設。為備非常。即無遺寇。何置兵士。但辺国之守。不可卒停。伏望置二千人。其余解却。又自宝亀五年至于当年。惣卅八歳。辺寇屡動。警無絶。丁壮老弱。或疲於征戍。或倦於転運。百姓窮弊。未得休息。伏望給復四年。殊休疲弊。其鎮兵者。以次差点。輪転復免者。並許之。

 

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