エミシとその時代 4 宝亀6年(775)~延暦4年(785)

宝亀6年(775)

323

 陸奥国の蝦夷が(前年)夏から秋にかけて騒動を起こし、民が砦に立てこもっていたため、放置された田畑が荒廃します。天皇は詔して、この年の課役・田租を免除しました。

 

527

 平城京の倉庫の真綿一万屯と甲斐・相模両国の真綿五千屯を使い、陸奥子に襖(おう・鎧の下に着る綿入れ)を作らせました。

 

913

 天皇は陸奥国鎮守副将軍で従五位上の紀朝臣広純(きのあそみひろすみ)を陸奥介に任じ、27日には正四位下の大伴宿禰駿河麻呂と従四位下の紀朝臣広庭(きのあそみひろにわ)をそれぞれ参議に任じました。

 

1013

 出羽国が言上します。

「蝦夷との戦いの余燼がくすぶっており、いまだ穏やかならざる状況です。ついては鎮兵996人の増援を願います。また要害の地を守りながら国府を遷したく思います」

天皇は勅を発し、相模、武蔵、上野、下野四国の兵士を現地に派遣しました。

 

1115

 天皇は「蝦夷の反乱を討ち鎮め、また懐柔して服従させたことは賞賛に値する」として、使者を陸奥国に派遣して詔を宣示させ大伴宿禰駿河麻呂以下1790余人に勲功により位階を加え授けました。

 

・「続日本紀」巻第三十三・宝亀6(775) 光仁天皇

三月・・・丙辰。陸奥蝦賊騒動。自夏渉秋。民皆保塞。田疇荒廃。

詔復当年課役田租。

 

五月・・・己未。以京庫綿一万屯。甲斐。相摸両国綿五千屯。造襖於陸奥国。

 

九月・・・従五位上紀朝臣広純為陸奥介。鎮守副将軍如故。・・・戊午。以正四位下大伴宿禰駿河麻呂。従四位下紀朝臣広庭。並為参議。

 

冬十月・・・癸酉。出羽国言。

蝦夷余燼。猶未平殄。三年之間。請鎮兵九百九十六人。且鎮要害。且遷国府。

勅差相摸。武蔵。上野。下野四国兵士発遣。

 

十一月・・・乙巳。遣使於陸奥国宣詔。

夷俘等忽発逆心。侵桃生城。鎮守将軍大伴宿禰駿河麻呂等。奉承朝委。不顧身命。討治叛賊。懐柔帰服。勤労之重。実合嘉尚。駿河麻呂已下一千七百九十余人。従其功勲加賜位階。

授正四位下大伴宿禰駿河麻呂正四位上勲三等。従五位上紀朝臣広純正五位下勲五等。従六位上百済王俊哲勲六等。余各有差。其功卑不及叙勲者。賜物有差。 

 

宝亀7年(776)

26

 陸奥国が「来る4月上旬には2万人の軍勢を以て、山海二道(陸奥と出羽)の賊を討つべきです」と言上します。

 天皇は直ちに勅を発して出羽国の兵士4000人を動かし、雄勝の道から出た軍勢は陸奥の西辺の賊を討ちました。

 

52

 出羽国志波(しわ)村の蝦夷が反逆して、出羽国の朝廷軍と戦闘状態になりました。戦況は朝廷軍に不利なものとなり、天皇は下総、下野、常陸等の国から騎兵を現地に向かわせ、賊を討たせました。

 

512

 天皇は近江介で従五位上の佐伯宿禰久良麻呂(さえきのすくねくらまろ)に、陸奥鎮守府の権副将軍を兼任させました。

 

77

 参議で正四位上、陸奥按察使兼鎮守将軍、勲三等の大伴宿禰駿河麻呂が亡くなりました。天皇は従三位を追贈し、絁30匹、麻布100端を贈りました。

 

714

 天皇は安房、上総、下総、常陸の四国に船50隻を建造させ、陸奥国に配備して不慮の事態に備えさせました。

 

721

 天皇は従五位下の上毛野朝臣馬長(かみつけぬのあそみうまおさ)を出羽守に任じました。

 

913

 陸奥国の俘囚395人が大宰府管内の諸国に分配されました。

 

1011

 度重なる征討の戦いを経た陸奥国では人民は疲労し生活も窮している、として当年の田租が免除されました。

 

1126

 天皇は陸奥国の兵士3000人を動員して胆沢(岩手県奥州市)の賊を討伐させました。

 

1129

 出羽国の俘囚358人が大宰府管内及び讃岐国に分配されました。内78人は諸官吏、参議以上の貴族に賤民として分け与えました。

 

1214

 陸奥国諸郡の人々から奥地の郡を守る者を募り、直ちに現地に定住させ3年分の租税を免じました。

 

・「続日本紀」巻第三十四・宝亀7(776) 光仁天皇

二月甲子。陸奥国言。

取来四月上旬。発軍士二万人。当伐山海二道賊。

於是。勅出羽国。発軍士四千人。道自雄勝而伐其西辺。是夜。有流星。其大如盆。

 

五月戊子。出羽国志波村賊叛逆。与国相戦。官軍不利。

発下総下野常陸等国騎兵伐之。

戊戌。以近江介従五位上佐伯宿禰久良麻呂為兼陸奥鎮守権副将軍。

 

秋七月・・・壬辰。参議正四位上陸奥按察使兼鎮守将軍勲三等大伴宿禰駿河麻呂卒。

贈従三位。賻絁卅疋。布一百端。

己亥。令造安房。上総。下総。常陸四国船五十隻。置陸奥国以備不虞。

丙午。以従五位下上毛野朝臣馬長為出羽守。

 

九月・・・丁卯。陸奥国俘囚三百九十五人分配大宰管内諸国。

 

冬十月・・・乙未。陸奥国頻経征戦。百姓彫弊。免当年田租。

 

十一月・・・庚辰。発陸奥軍三千人伐胆沢賊。

癸未。出羽国俘囚三百五十八人配大宰管内及讃岐国。其七十八人班賜諸司及参議已上為賤。

 

十二月・・・募陸奥国諸郡百姓戍奥郡者。便即占著。給復三年。 

 

宝亀8年(777)

3

 陸奥国の蝦夷で投降する者が相次ぎました。

 

525

 天皇は相模、武蔵、下総、下野、越後の各国に命じて、甲(よろい)200領を出羽国の守りのために送らせました。

 

527

 天皇は陸奥守で正五位下の紀朝臣広純(きのあそみひろすみ)に、陸奥按察使を兼任させました。

 

915

 陸奥国が「今年の四月には国を挙げて軍を動かし、山海の両賊を討ちました。その結果、国中が戦後処理に追われ何かとせわしなく、人民は生活苦にあえいでおります。そこで当年の調・庸並びに田租を免除して、人民を休息させて頂けますよう願います」と言上。

 天皇はこれを許可しました。

 

1214

 陸奥国の鎮守将軍である紀朝臣広純から天皇に、「志波(しわ)村の賊が蟻のように集まり反逆しました。出羽国の軍が戦いましたが、敗退してしまいました」との報告が入ります。

 天皇は近江介で従五位上の佐伯宿禰久良麻呂を鎮守権副将軍に任じて、出羽国を鎮圧させました。

 

1226

 出羽国の蝦賊の賊が反逆します。官軍が不利な戦況となり、武器を損失しました。

 

・「続日本紀」巻第三十四・宝亀8(777) 光仁天皇

三月・・・是月。陸奥夷俘来降者。相望於道。

 

五月・・・乙亥。仰相模。武蔵。下総。下野。越後国。送甲二百領于出羽国鎮戍。丁丑。陸奥守正五位下紀朝臣広純為兼按察使。

 

九月癸亥。陸奥国言。

今年四月。挙国発軍。以討山海両賊。国中怱劇。百姓艱辛。望請復当年調庸并田租。以息百姓。許之。

 

十二月辛卯。初陸奥鎮守将軍紀朝臣広純言。

志波村賊。蟻結肆毒。出羽国軍与之相戦敗退。

於是。以近江介従五位上佐伯宿禰久良麻呂為鎮守権副将軍。令鎮出羽国。

・・・癸卯。出羽国蝦賊叛逆。官軍不利。損失器仗。

 

宝亀9年(778)

625

 陸奥・出羽の国司以下の者で、蝦夷征討に功のあった2267人に天皇より位が与えられました。

 按察使で正五位下、勲五等の紀朝臣広純(きのあそみひろすみ)に従四位下・勲四等を、鎮守権副将軍で従五位上、勲七等の佐伯宿禰久良麻呂(さえきのすくねくらまろ)に正五位下・勲五等を、外正六位上の吉弥侯伊佐西古(きみこのいさせこ)と第二等の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)にそれぞれ外従五位下を、勲六等の百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)に勲五等を授けました。

 

1226

 天皇は唐客が拝朝する時の儀仗兵とするため、陸奥国・出羽国に命じて蝦夷20人を召しました。

 

・「続日本紀」巻第三十五・宝亀9(778) 光仁天皇

六月庚子。賜陸奥出羽国司已下。征戦有功者二千二百六十七人爵。(後略)

 

十二月・・・戊戌。仰陸奥出羽。追蝦夷廿人。為擬唐客拝朝儀衛也。 

 

宝亀10年(779)

927

 天皇は陸奥と出羽等の国に勅を発し、「常陸国の調の絁(あしぎぬ)、相模国の庸の真綿、陸奥国の税の麻布を渤海・鉄利などの禄に宛てよ」と命じました。

 続けて勅を発し、「出羽国に滞在している蕃人(渤海・鉄利の人々が来着していた)359人については、今は厳寒の時でもあり、海路も荒れて険しいものとなっているので、もし今年は留まりたいと願うならば、それを聞き入れるように」と命じました。

 

・「続日本紀」巻第三十五・宝亀10(779) 光仁天皇

九月・・・癸巳。勅陸奥出羽等国。用常陸調絁。相摸庸綿。陸奥税布。充渤海鉄利等禄。又勅。在出羽国蕃人三百五十九人。今属厳寒。海路艱険。若情願今年留滞者。宜恣聴之。 

 

宝亀11年(780)

21

 陸奥国の按察使兼鎮守副将軍で従四位下の紀朝臣広純が、天皇より参議に任じられました。

 

22

 陸奥国が天皇に言上します。

「船路をとり賊の残存した兵を打ち払おうと考えていますが、近頃は寒さが甚だしく川が凍結して船を使うことができません。しかし、現在も賊の来襲は止まりません。このような状況では、まずは賊の侵攻路を塞ぐべきと考えます。そこで軍士3000人を差し向けて34月の雪が消え、雨水が溢れる時に直ちに賊地に進み、覚鼈(かくべつ)城を造ろうと考えています」

 

 これに対し、天皇は勅を下しました。

「海道の諸地域はかなり遠く賊が犯してくるには不便だが、山地の賊は居住地が近いこともあり隙を窺い来襲してくる。このような賊は打ち払わなければ、その勢いは更に強いものとなろう。今こそ覚鼈城を造り胆沢の地を得るべきである。陸奥・出羽両国のためによいことである」

 

211

 陸奥国が再び天皇に言上します。

「去る正月26日、賊が長岡(宮城県大崎市)に入り、民家を焼き討ちしました。官軍は直ちに追討しましたが双方に死傷者が出ました。若し今すぐ賊を討伐しなければ、おそらく賊の襲撃は止まないことでしょう。来る3月中旬に兵を発して賊を討伐し、併せて覚鼈城を造り兵を置いて、防衛の任に着かせることを請い願います」

 

 天皇は勅を下します。

「狼は子でも野心があり恩義を顧みることがない。同じく蝦夷も敢えて険阻な地形を恃みとして辺境を侵犯し止むことがない。兵器は凶器でもあるが、使用するのはやむを得ないことである。宜しく3000の兵士を発して、残る賊を一人も残さず刈り取るべきである。情勢を見極めて効果的に軍勢を動かすように」

 

322

 陸奥国上治(かみじ)郡の大領で、外従五位下の伊治公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)が反乱を起こしました。呰麻呂は徒衆を率いて、按察使・参議・従四位下の紀朝臣広純(きのあそみひろすみ)を伊治城で殺害します。

 広純は大納言・中務卿(なかつかさきょう)兼任、正三位の紀朝臣麻呂(きのあそみまろ)の孫で、左衛士督・従四位下の宇美(うみ)の子でした。広純は宝亀年中に陸奥守に任じられ、続いて按察使に転任。在職中は有能な人物として称えられていました。

 呰麻呂は俘囚の子孫でした。初めは事情があって広純を嫌っていましたが呰麻呂は恨みを隠し、広純に媚びるようにして仕えていました。そうとは知らない広純は呰麻呂に気を許し、多大なる信頼を寄せていたのです。

 また牡鹿(おじか)郡の大領である道嶋大楯(みちしまのおおだて)は、同じ蝦夷である呰麻呂を事あるごとに見下し嘲り、蝦夷として遇していました。このような理不尽を呰麻呂は深く根に持つようになります。

 ある時、広純は建議して覚鼈柵の砦を造り、警備関係の兵を遠くに配置しました。続いて広純は蝦夷の軍勢を率いて伊治城に入り、そこには大楯と呰麻呂が共に従っていました。ここにおいて呰麻呂は蝦夷の軍と内応し、彼らを誘導して反乱を起こします。呰麻呂はまず大楯を殺し、徒衆を率いて按察使の広純を攻め、これを殺害しました。

 陸奥介である大伴宿禰真綱(おおとものすくねまつな)一人だけは、囲みの一角を開いて出し、多賀城へと護送しました。

 多賀城は長年、陸奥国司が治めてきた所で兵器や食料の備蓄は十分なものがありました。城下の人々は競って城中に入り保護されんことを願いましたが、陸奥介の真綱と陸奥掾(じょう)の石川浄足(いしかわきよたり)は後門より逃げ出してしまいます。これによって拠り所をなくした人々は一時に散り去ってしまい数日の後、多賀城に賊徒が入り府庫の物を争って取り、重い物まで持ち去ってしまい、後に残ったものは放火して焼いてしまいました。

 

328

 天皇は中納言で従三位の藤原朝臣継縄(ふじわらのあそみつぐただ)を征東大使に任じ、正五位上の大伴宿禰益立(おおとものすくねますたて)と従五位上の紀朝臣古佐美(きのあそみこさみ)を征東副使に任じました。判官(じよう)、主典(さかん)はそれぞれ4人です。

 

329

 天皇は従五位下の大伴宿禰真綱(おおとものすくねまつな)を陸奥鎮守副将軍に任じ、従五位上の安倍朝臣家麻呂(あべのあそみやかまろ)を出羽鎮狄(でわちんてき)将軍に任じました。軍監・軍曹はそれぞれ2人です。征東副使で正五位上の大伴宿禰益立に陸奥守を兼ねさせました。

 

44

 天皇は征東副使で正五位上の大伴宿禰益立に従四位下を授けました。

 

58

 平城京の庫と諸国にある甲(よろい)六百領について、直ちに出羽鎮狄将軍のもとに送ることになりました。

 

511

 天皇は出羽国に勅を下しました。

「以前、渡嶋(わたりしま)の蝦夷が心をこめて来朝し、貢献してから時久しいものとなった。今、俘囚が反逆し辺境を侵略、騒乱を起こしている。将軍や国司は渡嶋の蝦夷に饗宴を賜る日に、彼らを慰労し諭すべきである」

 

514

 天皇は勅を下しました。

「軍事に要する機材など、備えを欠くことがあってはならない。坂東諸国及び能登、越中、越後に糒(ほしいい)三万石を備えるよう命じよ。飯を炊ける数量は限りあるものだから、損失を生じないようにすべきである」

 

516

 天皇は勅を下しました。

「賊は狂ったように反乱を起こし辺境に侵攻しては騒いでいるが、我が方の狼煙(のろし)台は心もとなく、斥候も守りの役に立っていない。今、征東使と鎮狄将軍を向かわせて、道を二つに分けて征討させている。期日までに軍勢を集結させるには、須らく文官・武官が謀議を尽くし、将帥も力量を発揮して、賊徒を征伐し元凶は誅殺すべきである。宜しく進士を広く募り、一刻も早く軍部隊に送るようにせよ。若し進士らが感激して忠勇に励み自らの効を願う者があれば、特にその者の名を記録するように。賊を平定した後、抜擢するであろう」

 

68

 天皇は従五位上の百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)を陸奥鎮守副将軍に任じ、従五位下の多治比真人宇佐美(たじひのまひとうさみ)を陸奥介に任じました。

 

628

 天皇は陸奥持節副将軍の大伴宿禰益立(おおとものすくねますたて)らに勅を下しました。

「去る58日の将軍らの奏上では『兵糧の備えを怠りなく且つ、賊の機をうかがい、今月下旬を以て陸奥国府に進み入り、然る後、機会を見て返事に乗じて天誅を行おうと考えています』と言上してきて既に二月が経過している。こちらは日数と道程を考え、賊の連行、献上を待っているのだが、その姿はまだ見えない。軍を率いて出陣し、賊を討伐するのは国の大事ではないか。今後は我が軍の進退及び動静を引き続き奏聞すべきである。しばらく報告がないということはどういうことなのか。これからは細かなことまで報告せよ。もし文書だけでは意を尽くせないようであれば、軍監以下で細かく報告できる者を一人向かわせ報告させよ」

 

721

 征東使が甲一千領を請求してきたので、天皇は尾張・参河(みかわ)等の5箇国に命じて、軍所に運ばせました。

 

722

 征東使が襖(おう・鎧の下に着る綿入れ)四千領を請求してきたので、天皇は東海道や東山道等の諸国に命じて襖を作らせ、現地に送りました。

 

 天皇は勅を下しました。

「今、逆賊を討伐するために坂東の兵士を徴発する。来る95日を期限として陸奥国多賀城に赴かせ集結させよ。現地で必要となる軍糧は太政官に申請して直ちに送るように。兵士の集結には時期があり、食糧を継続して送るのは難しく飢えてしまうおそれもある。食糧搬送路の便や距離を考慮すれば、下総国の糒(ほしいい)六千石と常陸国の糒一万石を来る820日を期限として、現地に届けさせよ」

 

823

 出羽国の鎮狄将軍である安倍朝臣家麻呂(あべのあそみやかまろ)等が言上します。

「夷狄(いてき)の志良須(しらす)や俘囚の宇奈古(うなこ)らが『我等は朝廷と官軍の権威によりまた、それを頼みとして城下に住み時久しいものとなります。今、この秋田城のことについては色々と伺っていましたが、遂に永久に放棄されてしまうのでしょうか。それとも旧来通り兵士が交替で守ってくださるのでしょうか』と尋ねてきました」

 

 天皇は返答します。

「そもそも秋田城については前代の将軍、宰相らが詮議して建てたものである。その城は長年にわたり敵の攻撃を凌ぎ、民を守ってきた。そのような城の全てを放棄してしまうのは、良い計画とは言えないであろう。宜しく多少の軍士を派遣して鎮守の任に着かせ、彼ら俘囚の帰服の思いを損なうことのないようにせよ。直ちに使者または国司一人を派遣して、秋田城に専任させるように。また由理柵(ゆりのき)については賊共の要害の地であり、そこより秋田城への道が通じている。よって由理柵にも兵士を派遣し、現地ではお互いが助け合って防御にあたるように。思うに宝亀の初め、国司が『秋田城は保ち難く、河辺城は治めやすい』と言い、当時の評議によって河辺城を治めることになったが長年、秋田城下の人々は移住しようとはしなかった。これを以て移住ということについては、大変な重荷と感じている人が多いということを知るべきである。このような心情を踏まえた上で俘囚や人々に尋ねて、詳細に秋田城と河辺城の利害を言上せよ」

 

923

 天皇は従四位上の藤原朝臣小黒麻呂(ふじわらのあそみおぐろまろ)に正四位下を授け、持節征東大使に任じました。

 

1029

 天皇は征東使に勅を下しました。

「今月22日の奏状により、征東使らが遅延し既に征討の時宜を失しているのを知った。将軍らが出発し現地に赴いてから久しく月日がたち、終結した歩兵、騎兵は数万余となっている。加えて賊地に攻め入る期日を何回も上奏している。将軍らの上奏通りなら、今頃は狂賊を攻め滅ぼして平定しているはずである。しかるに今になって『今年は征討できません』と上奏している。夏は草が茂っているといい、冬は襖(ふすま・防寒上着)が欠乏しているといい、結局は巧みに言いつくろって今に至るも部隊は戦わず駐留したままとなっている。兵を集め武器・食糧を準備するのは将軍の職分である。ところが兵士を集める前に備えをすることもなく、かえって『城中の食料は不十分です』という。こんなことでは何月何日に賊に誅伐を加え、伊冶城を回復しようというのか。今、将軍は賊に欺かれた故に緩慢となり、その結果、長い逗留になってしまったのである。まだ11月になっていないのだから、挙兵して十分な兵力をもって戦いに向かうべきである。しかるに勅旨に背を向けて、尚も攻め入ろうとしない。人馬が悉く痩せ衰えてしまっては、何を以て賊に相対しようというのか。よき将軍の策はこのようなものではないであろう。将軍にあっては宜しく兵士達を教え諭して彼らを発奮させ、征討に向かわせるべきである。若し、今月も賊地に攻め入らないならば、多賀城・玉作城等に駐留し、防禦を強固なものにして、戦術を練り上げるようにせよ」

 

1210

 征東使が奏上します。

「うごめく虫のような蝦夷どもには仲間が多く、誅罰から言葉巧みに逃れたり、隙を窺っては害毒を周囲に及ぼしています。このため2000の兵を遣わして、鷲座(わしくら)、楯座(たてくら)、石沢(いわさわ)、大菅屋(おおすげや)、柳沢等の五道を攻め、木を切って道を塞ぎ、溝を深くして守りを固め、逆賊が首尾を窺う要害を断つものです」

 

 これに対し、天皇は勅を下しました。

「聞くところでは、出羽国の大室塞(おおむろのせき)等もまた賊の要害の地であり、わずかな隙を窺っては頻繁に来襲し、略奪を重ねている。宜しく将軍と国司に地勢を視察させて非常時の防御をさせるように」

 

1227

 陸奥鎮守副将軍で従五位上の百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)らが言上します。

「さる戦いにおいて、我等は賊に包囲され兵士の疲労は極に達し、矢は尽きてしまったことがありました。そんな時、桃生と白河等の郡の神11社に祈願したところ、神の加護を得て賊の囲みを破りました。これが神の力に非ざるものならば、何故に自軍の兵が生存できたのでしょうか。桃生、白河等の11社を幣社とされますよう申請いたします」

 天皇はこれを許可しました。

 

・「続日本紀」巻第三十六・宝亀11(780) 光仁天皇

二月・・・陸奥按察使兼鎮守副将軍従四位下紀朝臣広純。並為参議。

 

・・・丁酉。陸奥国言。

欲取船路伐撥遺賊。比年甚寒。其河已凍。不得通船。今賊来犯不已。故先可塞其寇道。仍須差発軍士三千人。取三四月雪消。雨水汎溢之時。直進賊地。因造覚鼈城。

於是下勅曰。

海道漸遠。来犯無便。山賊居近。伺隙来犯。遂不伐撥。其勢更強。宜造覚鼈城碍胆沢之地。両国之息莫大於斯。

 

・・・丙午。陸奥国言。

去正月廿六日。賊入長岡焼百姓家。官軍追討彼此相殺。若今不早攻伐。恐来犯不止。請三月中旬発兵討賊。并造覚鼈城置兵鎮戍。

勅曰。

夫狼子野心。不顧恩義。敢恃険阻。屡犯辺境。兵雖凶器。事不獲止。宜発三千兵。以刈遺蘖。以滅余燼。凡軍機動静。以便宜随事。

 

三月・・・丁亥。陸奥国上治郡大領外従五位下伊治公呰麻呂反。率徒衆殺按察使参議従四位下紀朝臣広純於伊治城。

広純大納言兼中務卿正三位麻呂之孫。左衛士督従四位下宇美之子也。宝亀中出為陸奥守。尋転按察使。在職視事。見称幹済。

伊治呰麻呂。本是夷俘之種也。初縁事有嫌。而呰麻呂匿怨。陽媚事之。広純甚信用。殊不介意。又牡鹿郡大領道嶋大楯。毎凌侮呰麻呂。以夷俘遇焉。呰麻呂深銜之。

時広純建議造覚鼈柵。以遠戍候。因率俘軍入。大楯呰麻呂並従。至是呰麻呂自為内応。唱誘俘軍而反。先殺大楯。率衆囲按察使広純。攻而害之。独呼介大伴宿禰真綱開囲一角而出。護送多賀城。其城久年国司治所兵器糧蓄不可勝計。城下百姓競入欲保城中。而介真綱。掾石川浄足。潜出後門而走。百姓遂無所拠。一時散去。後数日。賊徒乃至。争取府庫之物。尽重而去。其所遺者放火而焼焉。

 

・・・癸巳。以中納言従三位藤原朝臣継縄為征東大使。正五位上大伴宿禰益立。従五位上紀朝臣古佐美為副使。判官主典各四人。

甲午。以従五位下大伴宿禰真綱為陸奥鎮守副将軍。従五位上安倍朝臣家麻呂為出羽鎮狄将軍。軍監軍曹各二人。以征東副使正五位上大伴宿禰益立為兼陸奥守。

夏四月戊戌。授征東副使正五位上大伴宿禰益立従四位下。

 

五月辛未。以京庫及諸国甲六百領。且送鎮狄将軍之所。

 

・・・勅出羽国曰。

渡嶋蝦狄早効丹心。来朝貢献。為日稍久。方今帰俘作逆。侵擾辺民。宜将軍国司賜饗之日。存意慰喩焉。

 

・・・丁丑。勅曰。

機要之備不可闕乏。宜仰坂東諸国及能登。越中。越後。令備糒三万斛。炊曝有数。勿致損失。

 

・・・己卯。勅曰。

狂賊乱常。侵擾辺境。烽燧多虞。斥候失守。今遣征東使并鎮狄将軍。分道征討。期日会衆。事須文武尽謀。将帥竭力。苅夷姦軌。誅戮元凶。宜広募進士。早致軍所。若感激風雲。奮厲忠勇。情願自効。特録名貢。平定之後。擢以不次。

 

六月・・・辛丑。従五位上百済王俊哲為陸奥鎮守副将軍。従五位下多治比真人宇佐美為陸奥介。

 

・・・勅陸奥持節副将軍大伴宿禰益立等。将軍等去五月八日奏書云。且備兵糧。且伺賊機。方以今月下旬進入国府。然後候機乗変。恭行天誅者。既経二月。計日准程。佇待献俘。其出軍討賊。国之大事。進退動静。続合奏聞。何経数旬絶無消息。宜申委曲。如書不尽意者。差軍監已下堪弁者一人。馳駅申上。

 

秋七月・・・癸未。征東使請甲一千領。仰尾張参河等五国。令運軍所。

甲申。征東使請襖四千領。仰東海東山諸国。便造送之。

勅曰。

今為討逆虜。調発坂東軍士。限来九月五日。並赴集陸奥国多賀城。其所須軍糧。宜申官送。兵集有期。糧餽難継。仍量路便近。割下総国糒六千斛。常陸国一万斛。限来八月廿日以前。運輸軍所。伊予国越智郡人越智直静養女。以私物資養窮弊百姓一百五十八人。依天平宝字八年三月廿二日勅書。賜爵二級。

 

八月・・・乙卯。出羽国鎮狄将軍安倍朝臣家麻呂等言。

狄志良須俘囚宇奈古等款曰。己等拠憑官威。久居城下。今此秋田城。遂永所棄歟。為番依旧還保乎者。

下報曰。

夫秋田城者。前代将相僉議所建也。禦敵保民。久経歳序。一旦挙而棄之。甚非善計也。宜且遣多少軍士。為之鎮守。勿令衂彼帰服之情。仍即差使若国司一人。以為専当。又由理柵者。居賊之要害。承秋田之道。亦宜遣兵相助防禦。但以。宝亀之初。国司言。秋田難保。河辺易治者。当時之議。依治河辺。然今積以歳月。尚未移徙。以此言之。百姓重遷明矣。宜存此情歴問狄俘并百姓等具言彼此利害。

 

九月・・・甲申。授従四位上藤原朝臣小黒麻呂正四位下。為持節征東大使。

 

冬十月・・・己未。勅征東使。

省今月廿二日奏状知。使等延遅。既失時宜。将軍発赴。久経日月。所集歩騎数万余人。加以入賊地期。上奏多度。計巳発入。平殄狂賊。而今奏。今年不可征討者。夏称草茂。冬言襖乏。縦横巧言。遂成稽留。整兵設糧。将軍所為。而集兵之前。不加弁備。還云。未儲城中之糧者。然則何月何日。誅賊復城。方今将軍為賊被欺。所以緩怠致此逗留。又未及建子。足以挙兵。而乖勅旨。尚不肯入。人馬悉痩。何以対敵。良将之策。豈如此乎。宜加教喩存意征討。若以今月。不入賊地。宜居多賀玉作等城。能加防禦。兼練戦術。

 

十二月・・・庚子。征東使奏言。

蠢茲蝦虜。寔繁有徒。或巧言逋誅。或窺隙肆毒。是以遣二千兵。経略鷲座。楯座。石沢。大菅屋。柳沢等五道。斬木塞径。深溝作険。以断逆賊首鼠之要害者。於是。

勅曰。

如聞。出羽国大室塞等。亦是賊之要害也。毎伺間隙。頻来寇掠。宜仰将軍及国司。視量地勢。防禦非常。

 

・・・丁巳。陸奥鎮守副将軍従五位上百済王俊哲等言。己等為賊被囲。兵疲矢尽。而祈桃生白河等郡神一十一社。乃得潰囲。自非神力。何存軍士。請預幣社。許之。

 

天応元年(781)

正月1

 天皇は詔の中で「伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)らによって誑かされ賊軍となった民衆でも、改心して賊軍を抜け出してきた者には3年間、租税を免除するように。蝦夷征討軍に従い兵として陸奥、出羽に赴いた諸国の人民は長く及んだ兵役に疲れ、多くの者の家業が傾き破綻している。それらの家については今年の田租は免除しなさい。また、蒔くべき種籾が無ければ、その地の国司は然るべき量を貸し与えなさい」と命じました。

⇒朝廷による蝦夷征討は38年戦争と称されるほど長きに亘るものでしたが、この詔の言葉一つからも、従軍した諸国の人民の負担は多大なものだったことが分かります。

 

正月10

 天皇は参議で正四位下の藤原朝臣小黒麻呂を陸奥按察使兼任としました。

 

正月15

 天皇は蝦夷征討の兵糧を進上した功により、下総国印幡郡の大領で外正六位上の丈部直牛養(はせつかべのあたいうしかい)と常陸国那賀郡の大領で外正七位下の宇治部全成(うじべのまたなり)に外従五位下を授けました。

 

230

 天皇は相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸等の諸国に命じて、穀十万石を陸奥の軍所に船で送らせました。

 

43

 光仁天皇は病により皇太子に譲位、桓武天皇が即位しました。

 

57

 桓武天皇は参議で陸奥按察使、正四位下の藤原朝臣小黒麻呂に兵部卿を兼任させました。

 

527

 天皇は従五位上の紀朝臣古佐美(きのあそみこさみ)を陸奥守に任じました。

 

61

 天皇は参議・持節征東大使・兵部卿・正四位下・陸奥按察使・常陸守である藤原朝臣小黒麻呂等に勅を下しました。

「去る524日の奏状を得て、具に蝦夷との戦いの情勢を知った。ただ彼の蝦夷の性分といえば無数の蜂や蟻が集まる如くで、何かと乱のもとになっている。こちらが攻撃すれば山や藪に逃走し、そのまま放っておけば城や砦に攻撃してくる。加えて伊佐西古(いさせこ)、諸絞(しょこう)、八十嶋(やそしま)、乙代(おとしろ)らは賊の中でも首領級で、一人が千人にも相当する。伊佐西古らは山野に姿を隠しこちらの様子を見ては隙を窺っているが、我が軍の威力に恐れをなして未だ敢えてその毒を振りまくようなことはしていない。今、将軍らは賊の首を一つも斬っていないのに、先に征討軍を解散してしまった。事は既に始まっているのであり、これをいかにして止めることができようか。ただ先と後の奏状を見たところ賊の軍勢は四千余人であり、その内あげた首級はわずか七十余人ばかりで、いまだ多くの賊が健在である。何故に先に勝利したとして、都へと凱旋することを申請してくるのか。たとえ旧例があるからといっても、朕はこれを認めることはないであろう。宜しく副使の内蔵忌寸全成(くらのいみきまたなり)と多朝臣犬養(おおのあそみいぬかい)のどちらか一人を駅馬に乗せて入京させ、まず軍事における委細を申し述べさせよ。その余のことについては後の指示を待つように」

 

710

 天皇は正四位下の藤原朝臣小黒麻呂を民部卿に任じ、陸奥按察使についてはそのままとしました。

 

825

 陸奥按察使で正四位下の藤原朝臣小黒麻呂が蝦夷征討を終えて入京。天皇は特に正三位を授けました。

 

93

 天皇は五位以上の官人と内裏で宴を催し、従三位の藤原朝臣継縄に正三位を授けました。

 

98

 天皇は正五位下の内蔵忌寸全成(くらのいみきまたなり)を陸奥守に任じました。

 

922

 天皇は詔を発して蝦夷征討の功労を称え、従五位上の紀朝臣古佐美(きのあそみこさみ)に従四位下・勲四等を授けました。

 ほかにも、従五位上の百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)に正五位上・勲四等を、正五位下の内蔵忌寸全成(くらのいみきまたなり)に正五位上・勲五等を、従五位下の多朝臣犬養(おおのあそみいぬかい)に従五位上・勲五等を、従五位下の多治比真人海(たじひのまひとうみ)に従五位上を、正六位上の紀朝臣木津魚(きのあそみこつお)と日下部宿禰雄道(くさかべのすくねおみち)、百済王英孫(くだらのこにきしえいそん)に従五位下を、正六位上の阿倍猿嶋朝臣墨縄(あべさしまのおみすみただ)に外従五位下・勲五等を、入間宿禰広成(いるまのすくねひろなり)に外従五位下を授けました。

 

926

 征東副使の大伴宿禰益立(おおとものすくねますたて)は蝦夷征討に発する際、従四位下を授かり当初は大いに期待されていました。しかし、天皇のその後の益立に対する認識は厳しいもので、彼は軍勢を動かす時機を誤り滞留して動かず、徒に軍糧を費やして月日を引き延ばすような有り様だった、というものでした。

 これにより天皇は征東大使として藤原朝臣小黒麻呂を派遣します。小黒麻呂は到着後、直ちに進軍して各所の城塞を奪還しました。天皇は詔を発して益立が進軍しなかったことを責め、彼の従四位下の位を剥奪しました。

 

1016

 尾張、相模、越後、甲斐、常陸等の国人12名が軍糧を自力で陸奥まで届けた功により、運搬量に応じて位階が授けられました。また軍功のあった蝦夷の人には、勲六等相当には一等を、勲八等には二等を、勲九等には三等を、勲十等には四等が授けられました。

 

121

 天皇は陸奥守で正五位上の内蔵忌寸全成(くらのいみきまたなり)に鎮守副将軍を兼任させました。

 

・「続日本紀」巻第三十六・天応元年(781) 光仁天皇~桓武天皇

天応元年春正月辛酉朔。

詔曰。

・・・又如有百姓為呰麻呂等被詿誤。而能棄賊来者。給復三年。其従軍入陸奥出羽諸国百姓。久疲兵役。多破家産。宜免当戸今年田租。如無種子者。所司量貸。

 

・・・参議正四位下藤原朝臣小黒麻呂為兼陸奥按察使。

 

・・・乙亥。下総国印幡郡大領外正六位上丈部直牛養。常陸国那賀郡大領外正七位下宇治部全成。並授外従五位下。以進軍糧也。

 

二月・・・己未。穀一十万斛仰相摸。武蔵。安房。上総。下総。常陸等国。令漕送陸奥軍所。

 

五月・・・参議陸奥按察使正四位下藤原朝臣小黒麻呂為兼兵部卿。

 

・・・乙酉。以従五位上紀朝臣古佐美為陸奥守。

 

六月・・・勅参議持節征東大使兵部卿正四位下兼陸奥按察使常陸守藤原朝臣小黒麻呂等曰。

得去五月廿四日奏状。具知消息。但彼夷俘之為性也。蜂屯蟻聚。首為乱階。攻則奔逃山薮。放則侵掠城塞。而伊佐西古。諸絞。八十嶋。乙代等。賊中之首。一以当千。竄迹山野。窺機伺隙。畏我軍威。未敢縦毒。今将軍等。未斬一級。先解軍士。事已行訖。無如之何。但見先後奏状。賊衆四千余人。其所斬首級僅七十余人。則遺衆猶多。何須先献凱旋。早請向京。縦有旧例。朕不取焉。宜副使内蔵忌寸全成。多朝臣犬養等一人乗駅入京。先申軍中委曲。其余者待後処分。

 

秋七月・・・丁卯。正四位下藤原朝臣小黒麻呂為民部卿。陸奥按察使如故。

 

八月・・・辛亥。陸奥按察使正四位下藤原朝臣小黒麻呂。征伐事畢入朝。特授正三位。

 

九月戊午。宴五位已上於内裏。授従三位藤原朝臣継縄正三位。

 

・・・癸亥。正五位下内蔵忌寸全成為陸奥守。

 

・・・丁丑。詔授従五位上紀朝臣古佐美従四位下勲四等。従五位上百済王俊哲正五位上勲四等。正五位下内蔵忌寸全成正五位上勲五等。従五位下多朝臣犬養従五位上勲五等。従五位下多治比真人海従五位上。正六位上紀朝臣木津魚。日下部宿禰雄道。百済王英孫並従五位下。正六位上阿倍猿嶋朝臣墨縄外従五位下勲五等。入間宿禰広成外従五位下。並賞征夷之労也。

 

・・・辛巳。初征東副使大伴宿禰益立。臨発授従四位下。而益立至軍。数愆征期。逗留不進。徒費軍糧。延引日月。由是。更遣大使藤原朝臣小黒麻呂。到即進軍。復所亡諸塞。於是。詔責益立之不進。奪其従四位下。

 

冬十月・・・辛丑。尾張。相摸。越後。甲斐。常陸等国人。総十二人。以私力運輸軍糧於陸奥。随其所運多少。加授位階。又軍功人殊等授勲六等一等。勲八等二等。勲九等三等。勲十等四等。

 

十二月乙酉朔。陸奥守正五位上内蔵忌寸全成為兼鎮守副将軍。 

 

延暦元年(782)

53

 天皇は軍糧を献じた功により、下野国安蘇郡の主帳で外正六位下の若麻続部牛養(わかおみべのうしかい)と陸奥国の人で外大初位下の安倍信夫臣東麻呂(あべしのぶのおみあずままろ)らに外従五位下を授けました。

 

512

 この頃、陸奥国では兵乱があり、奥郡の人民はそれぞれの村落に集まれずにいました。このため天皇は勅を下して租税を3年間免除することにしました。

 

520

 陸奥国が「戦いにおいて、鹿嶋神に祈祷して凶賊を討ち払いました。鹿嶋神の霊験は本物です。鹿嶋神に位階を授けられることを望みます」と言上。

 天皇は勅を下して勲五等と封()二戸を授けました。

 

617

 天皇は春宮大夫で従三位の大伴宿禰家持(おおとものすくねやかもち)に陸奥按察使と鎮守将軍を兼任させ、外従五位下の入間宿禰広成(いるまのすくねひろなり)を陸奥介に、外従五位下の安倍猿嶋臣墨縄(あべのさしまのおみすみただ)を鎮守権副将軍に任じました。

 

・「続日本紀」巻第三十七・延暦元年(782) 桓武天皇

 

五月・・・又下野国安蘇郡主帳外正六位下若麻続部牛養。陸奥国人外大初位下安倍信夫臣東麻呂等献軍糧。並授外従五位下。

 

・・・甲午。陸奥国頃年兵乱。奥郡百姓並未来集。勅給復三年。

 

・・・壬寅。陸奥国言。

祈祷鹿嶋神。討撥凶賊。神験非虚。望賽位封。

勅奉授勲五等封二戸。

 

六月・・・春宮大夫従三位大伴宿禰家持為兼陸奥按察使鎮守将軍。外従五位下入間宿禰広成為介。外従五位下安倍猿嶋臣墨縄為権副将軍。 

 

延暦2年(783)

415

 天皇は勅を下しました。

「聞くところでは、近頃、坂東八箇国は籾(もみ)米を陸奥の鎮所へと運んでいるが、現地の将や役人らは稲をもって籾米と交換してしまい、その籾米を軽い物(絹布等)と交換して京へ送っているという。このような利益を得て恥じることがないとは、なんたることであろう。また鎮兵をみだりに使役して、多くの私田を経営しているという。このようなことだから鎮兵は疲れ切ってしまい、賊を討伐することもできない状態である。このような行為は法に照らせば深刻な罪罰となる。だが、これまでは恩赦にもあずかり寛大に許されてもいた。今後はこのような私腹を肥やす行為は一切止めるべきである。違反者があれば捕らえて軍法によって裁き、二度と悪事を働けないようにせよ」

 

419

 天皇は坂東諸国に勅を下しました。

「蛮夷(ばんい)が侵入して世を乱すことは、古(いにしえ)よりよくあることだ。このような賊は武力で討伐しなければ、いかなる手段によって民の害を除けるというのか。これによって、昔の(中国の)帝王が有苗(ゆうびょう・中国南方の蛮族)を征討したり、獫狁(けんいん・北方の匈奴)を討伐するなど、その用兵は故あることだと知った。近頃、蝦夷は狂ったように乱暴を働き、辺境の守りを失ったのである。事止むを得ず頻繁に軍を動かし征討に向かわせ、遂には坂東の諸国を兵の動員と物資の調達で疲弊させ、人民を久しく武器・軍糧の輸送などで疲労困憊にしてしまった。朕はこのような事態となってしまったことを哀れに思う。今、使者を派遣して慰問し、倉庫を開けて民の労に報いたい。民に喜びを与えて使う、というがこれは優れた王が民を愛するからであろう。およそ東国全土に朕の意を遍く知らしめよ」

 

61

 出羽国が言上します

「宝亀十一年(780)に雄勝・平鹿二郡の人民は賊に侵略され各自の本業を失ってしまい、疲れきっています。そこで郡役所を建て各所へ散ってしまった人民を再び招集して口分田を支給していますが、作業に追われいまだ休むことができません。そのため、調と庸を進上することが困難な状態です。このような人民の租税を免除し、疲弊しきった民に休息を与えて頂けるよう要望いたします」

 天皇は勅を下し3年間、租税を免除しました。

 

66

 天皇は勅を下しました。

「蝦夷の乱は止むことがなく、王命にも従わない。彼らを追えば鳥のように散り散りとなり、放置すれば蟻のように群がってくる。我が軍は兵士の訓練、教育に励み、賊の侵略に備えなければならない。今聞くところでは坂東諸国では事が起きた時に軍役を課せられても、多くの者が身体が弱く、戦に堪えられないという。雑色や浮浪人の類には弓術や乗馬にたけ、戦闘に堪える者がいるのに、徴発のある度に今まで使われることがなかったという。同じ皇民であるのに、どうしてこのようなことになったのだろうか。これよりは坂東八箇国に命じて、各国の散位の子、郡司の子弟及び浮浪人の類で身体が軍士として堪えられそうな者を選抜して、その国の大小によって1000以下、500以上の者に兵士としての教育を施し、装備を整えさせよ。役人となる者には便宜をはかり、当国にて勤務評定を行い無位の公民には徭(よう)を免除するように。この件については、職務に精通した国司一人を専任として処理させよ。非常時には軍士らを率いて現地に急行し、状況を報告させるように」

 

1112

 天皇は常陸介で従五位上の大伴宿禰弟麻呂(おおとものすくねおとまろ)に征東副将軍を兼任させました。

 

・「続日本紀」巻第三十七・延暦2(783) 桓武天皇

夏四月・・・辛酉。勅曰。

如聞。比年坂東八国。運穀鎮所。而将吏等。以稲相換。其穀代者。軽物送京。苟得無恥。又濫役鎮兵。多営私田。因茲。鎮兵疲弊。不任干戈。稽之憲典。深合罪罰。而会恩蕩。且従寛宥。自今以後。不得更然。如有違犯。以軍法罪之。宜加捉搦。勿令侵漁之徒肆濁濫。

 

・・・乙丑。勅坂東諸国曰。

蛮夷猾夏。自古有之。非資干戈。何除民害。是知。加徂征於有苗。奮薄伐於獫狁。前王用兵。良有以也。自頃年夷俘猖狂。辺垂失守。事不獲已。頻動軍旅。遂使坂東之境恒疲調発。播殖之輩久倦転輸。念茲労弊。朕甚愍之。今遣使存慰。開倉優給。悦而使之者。寔惟哲王之愛民乎。凡厥東土。悉知朕意焉。

 

六月丙午朔。出羽国言。宝亀十一年雄勝平鹿二郡百姓。為賊所略。各失本業。彫弊殊甚。更建郡府。招集散民。雖給口田。未得休息。因茲不堪備進調庸。望請。蒙給優復。将息弊民。

勅給復三年。

 

辛亥。勅曰。

夷虜乱常。為梗未已。追則鳥散。捨則蟻結。事須練兵教。卒備其寇掠。今聞。坂東諸国。属有軍役毎。多尫弱全不堪戦。即有雑色之輩。浮宕之類。或便弓馬。或堪戦陣。毎有徴発。未嘗差点。同曰皇民。豈合如此。宜仰坂東八国。簡取所有散位子。郡司子弟。及浮宕等類。身堪軍士者随国大小。一千已下。五百已上。専習用兵之道。並備身装。即入色之人。便考当国白丁。免徭。仍勒堪事国司一人。専知勾当。如有非常。便即押領奔赴。可告事機。

 

十一月・・・常陸介従五位上大伴宿禰弟麻呂為兼征東副将軍。 

 

延暦3年(784)

1111

 天皇は平城宮から長岡宮に移りました。

 

・「続日本紀」巻第三十八・延暦3(784) 桓武天皇

十一月・・・戊申。天皇移幸長岡宮。

 

延暦4年(785)

27

 蝦夷征討に参加した功により、天皇は陸奥国小田郡の大領で正六位上の丸子部勝麻呂に(わにこべのかつまろ)に外従五位下を授けました。

 

212

 天皇は従五位上の多治比真人宇美(たじひのまひとうみ)を陸奥按察使に任じ鎮守副将軍を兼任させ、陸奥国守はそのままとしました。

 

39

 天皇は授陸奥按察で従五位上の多治比真人宇美に正五位下を授け、彩色した絹十疋(ひき)・絁(あしぎぬ)十疋・綿二百屯を与えました。

 

47

 中納言・従三位で春宮大夫・陸奥按察使・鎮守将軍の大伴宿禰家持(おおとものすくねやかもち)らが言上します。

「名取(なとり)以南の14郡は山地や海沿いという僻地であり、多賀城から遠く離れています。そこから兵を徴発しても危急の事態には間に合いません。そこで多賀・階上(しなかみ)2郡を設置して人民を募集し、人や兵士を国府に集め、東西の防御を固めたところです。これはまことに不慮の事態に備えたもので、官軍の鋒先を万里の先まで及ぼすものになります。しかしながら、名目上は開設したといっても、郡の統領はいまだ任命されておりません。民が周囲を見回しても心のよりどころはないのが現状です。郡を正式につくっていただき、官員を配置してくださるよう申請いたします。しかれば、民は朝廷が全てを統率していることを知り、賊は官軍の隙を窺う望みが断たれることになるでしょう」

 天皇はこれを許しました。

 

14

宮城県・亘理(わたり)、伊具、刈田(かつた)、柴田

福島県・宇多、行方(なめかた)、標葉(しめは)、磐城(いわき)、菊多、信夫(しのぶ)、安積(あさか)、磐瀬、白河、会津

 

520

 天皇は従五位下の百済王英孫(くだらのこにきしえいそん)を陸奥鎮守権副将軍に任じました。

 

62

 出羽国と丹波国の穀物が不作となり人民は飢饉に苦しんだので、天皇は物を恵み与えました。

 

929

 天皇は従五位下の百済王英孫を出羽守に任じました。

 

1125

 天皇は坂上大宿禰田村麻呂(さかのうえのおおすくねたむらまろ)に従五位下の位を授けました。

 

・「続日本紀」巻第三十八・延暦4(785) 桓武天皇

二月・・・壬申。授陸奥国小田郡大領正六位上丸子部勝麻呂外従五位下。以経征戦也。

 

・・・丁丑。従五位上多治比真人宇美為陸奥按察使兼鎮守副将軍。国守如故。

 

・・・甲辰。授陸奥按察使従五位上多治比真人宇美正五位下。又賜彩帛十疋。絁十疋。綿二百屯。

 

夏四月・・・辛未。中納言従三位兼春宮大夫陸奥按察使鎮守将軍大伴宿禰家持等言。名取以南一十四郡。僻在山海。去塞懸遠。属有徴発。不会機急。由是権置多賀。階上二郡。募集百姓。足人兵於国府。設防禦於東西。誠是備預不虞。推鋒万里者也。但以。徒有開設之名。未任統領之人。百姓顧望。無所係心。望請。建為真郡。備置官員。然則民知統摂之帰。賊絶窺窬之望。

許之。

 

五月・・・従五位下百済王英孫為陸奥鎮守権副将軍。

 

六月乙丑。出羽。丹波。年穀不登。百姓飢饉。並賑給之。

 

九月・・・従五位下百済王英孫為出羽守。

 

十一月・・・坂上大宿禰田村麻呂並従五位下。 

 

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