まとめ
現在まで残る真蹟曼荼羅による限りでは、文永10年7月前後に、佐渡始顕本尊の如き相貌・座配、讃文の曼荼羅は見当たりません。通称「佐渡百幅本尊」と称される在座列衆・諸尊の少ない御本尊となります。
佐渡期において、日蓮は天台宗(台密)への一定の配慮・期待・評価による従来の「天台沙門」的観念を超えて、日本国において法華経の最第一を真に知り、身で読んだ、ただ「一人」として「法華経の行者」「如来使」であることを自覚。それは文の表には「上行菩薩」として示されながらも、その内奥は「末法の教主」にまで高められ、自己の力量による衆生成仏への具体的行動を開始しました。その第一に挙げられるのが妙法曼荼羅の図顕ではないでしょうか。
当時の日蓮を取り巻く状況、書簡から汲み取れる心情、また「開目抄」「観心本尊抄」「観心本尊抄副状(観心本尊抄送状)」をあわせ見れば、文永10年7月には本格的に曼荼羅を図顕して然るべき時となっています。
いつ謀殺、死罪に処せられるかもしれない身の上は、日蓮自身が痛切に実感していたことでしょう。ここで「此の事日蓮当身の大事なり」(観心本尊抄副状)を踏まえて考えれば、日蓮は自身なきあとの自己、我が身・我が魂の当体ともいうべき実体として曼荼羅を図顕したとも考えられるのです。それは、文永10年4月25日の「観心本尊抄」から遠くない日に、実行されたことでしょう。
佐渡始顕本尊の讃文は特異ではありますが、現存真蹟曼荼羅の列衆、讃文においても「特異」「一つしかない」「このような組み合わせは他に例がない」「隠没して暫く後に出現」というものがあり、今日のように全体を俯瞰できる位置から、相貌・座配、傾向を調べて分析をしても、曼荼羅は日蓮の内観世界を示しているものであることを踏まえなければならず、研究者の思考の中だけでは断定し切れない、慎重なる検討を要するものだと考えるのです。
「観心本尊抄副状(観心本尊抄送状)」の文意は佐渡始顕本尊讃文と符号しており、その後の曼荼羅讃文にも通じています。佐渡始顕本尊讃文は特異というよりも、「観心本尊抄副状」を曼荼羅相貌中に具体的に顕していると考えられます。
日蓮は佐渡始顕本尊を以て「観心本尊抄」を事実の上に顕し、即ち目に見えるかたちとして一切衆生皆成仏道の本尊を確立。続いて自らの命につき「いつかは」と覚悟するも、結局は命根尽きることなく無事に鎌倉へと帰還。しかし、自らの存命中には広宣流布の大願成就、立正安国の仏国土実現すること叶わずの現実を知り、一時は隠棲の思いで身延へ入山。そこでNo11曼荼羅を図顕します。その後の時の経過、また文永11年10月の蒙古襲来というかねてから予見していた他国侵逼難の現実化、国家的大事件の時に当たり、新たなる展開を期して法の久住、弟子檀越・門下の育成に励むと共に、「本尊」としての曼荼羅の図顕に心血を注ぐようになったと拝察します。
(2022.12.31)